石川門の二重櫓
所在地 石川県金沢市丸の内
種類 梯郭式・平山城
天守 なし
築城 天成8年(1580)佐久間盛政・前田利家
主な城主 佐久間氏・前田氏
主な遺構 石川門(国重文)・三十間長屋(国重文)
鶴丸倉庫(国重文)
五十間長屋・橋爪門続櫓。河北門(復元)
特徴・見所
○他の城にない石垣の種類が多い
○現存の石川門・三十間長屋
○海鼠壁(なまこかべ)、鉛瓦。
○唐破風付き格子出窓に注目
金沢城周辺マップ
金沢城公園内は、金沢城の特徴である閣時代のさまざまの技法を凝らした石垣、現存する建物、復元された建物などを眺めながら、自由に散策することにした。まず、古くから金沢城のシンボル
⑦石川門
をくぐると三の丸に出る。三の丸の北側には往時の姿を復元した
⑥河北門
がある。そして、三の丸広場からは3年以上の歳月をかけたて復元した
⑨橋爪門、橋爪門続櫓、五十間長屋
、
菱櫓
の勇壮な建物群を望むことができる。復元建物群内部を見学した後、二ノ丸から極楽橋を渡って本丸に入る。本丸の西側には
⑱三十間長屋
が、そして本丸に隣接した
⑫鶴丸倉庫
がある。どちらも現存する遺構である。本丸の南西側には復元整備された
⑲いもり堀
と櫓台の石垣の美しい風景が広がる。さらに、昔の百間堀が道路となった百間堀通りを渡ると日本三名園の一つである
兼六園
があり、林泉回遊式庭園の趣のある風景を楽しむことができる。
金沢城公園の歴史
加賀一向一揆の拠点だった金沢御堂を織田信長の命により陥落させた柴田勝家が、佐久間盛政に築かせたのが金沢城である。その後、天成11年(1583)に前田利家に領有されると文禄元年(1592)には前田家に客将として招かれた
高山右近
により大改修を受ける。さらに利家の子・利長の代にも度々改修されている。かっては五重の天守を持ち、長々と石垣、櫓が連なる壮大な城だったが江戸、明治期の度重なる失火で失われてしまう。だが現在でも高欄門と菱櫓からなる石川門、三十間長屋、丑寅櫓石垣などは残り、平成18年には五十間長屋や一部の櫓、平成23年には河北門が再建、かっての威容の一部を取り戻している。
前田利家と金沢城
○前田利家は加賀百万石前田家の祖である。尾張荒子(:現名古屋市中川区荒子町)の土豪前田 利昌の四男として生まれ、織田信長に従い、大名としての基を築いた。幼名犬千代、前名又左 衛門、武勇の誉高く「槍の又左」の異名がある。
○豊臣秀吉とは犬千代時代からの交わりで、信長時代には近江長浜、越前府中、能登七尾の城 主となたが、秀吉と柴田勝家の戦いの後、秀吉と連携して、天正11年(1583)金沢城に入城し た。
○金沢城は寛永8年(1631)の火災以降、本丸の機能が次第に二の丸へと移された。菱櫓・五十 間長屋・橋爪門続櫓の形体もこのころに整備された。17世紀の終わり頃には、二の丸「千畳敷 の御殿」と呼ばれるほど壮麗な建物となった。そして、宝暦9年(1759)の火災を機に完全に本 丸から二の丸中心の城へと変化した。この二の丸の建物は宝暦9年(1759)、文化5年(1808)二 回の大きな火災を受け、その都度再建され明治期まで存続した。
(パンフレットより)
下記の文字をクリックすればリンクします
兼六園の冬景色
兼六園のライトアップ
金沢城周辺の紅葉
①尾山神社神門(重文)
この神門は明治8年(1875)にオランダ人技師ホルトマンの設計で津田吉之助
が建てた。三層造り神社とは見えないような異国情緒を漂う建物である。
尾山神社
前田利家を祀る神社で元々は慶長4年(1599)に加賀藩2代前田利長に
よって卯辰山に創建されたが歴代の藩主によってここに移転された。
神社境内にある前田利家銅像
旧金沢城二の丸門(現・尾山神社東御門
桃山御殿様式の唐門で宝暦9年(1760)の火災を免れた金沢城初期の貴重な遺構。
彫刻された二頭の龍が水を呼んで火災が免れたという伝説がある
②尾崎神社
この神社には前田利常が祀られ寛永20年(1643)に創建された。
徳川家の扉に付けられた葵の紋がいたるところにちりばめられていて
「金沢の江戸」「北陸の日光」と呼ばれていた。
徳川家と婚姻関係にあった前田家の名誉称号である。
③黒門口跡
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黒門口
跡から入城する緩やかな坂を上ると新丸広場に出る。
大手堀
④新丸広場
以前、城内に金沢大学理学部・教養部のキャンパスが置かれた場所。
隙
⑤大手門口
大手門口の鏡石は迫力がある
大手門跡の正面からの階段は大手門口から新丸広場に入るルート
大手門跡
巨大な割石を使用した「打込み接(ハギ)」の石垣が往時の強固な大手門忍ばせている。
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「河北門」は金沢城の大手門跡から新丸広場入り、河北坂を上がったところに位置するのが「三の丸の正面」であり、金沢城の実質的な正門である。現存する
橋爪門、石川門とともに「金沢城三御門」と呼ばれている。金沢城の建物の大半が焼失した宝暦の大火(1759)の後、安永元年(1772)に再建された。再建された河北門は、明治15年頃になくなるまで金沢城の実質的な正門としての役割を果たしていた。約130年ぶりに甦った河北門は、平成19年11月に着工し、平成22年4月まで約2年半の歳月をかけて完成した。
復元にあたっては、現存する絵図、古写真、文献および埋蔵文化財の調査結果を踏まえて、史実を尊重し、日本古来の伝統工法によって、戸室石による石垣積み、漆喰仕上げによる白壁、軸組を初めとする木工事、屋根鉛瓦葺きなど構造・仕上部材の細部にわたって石川の匠の技を発揮したものである。 (パンフレットより)
⑥河北門(二の門)
:
: 三の丸園地側から眺めた門
金沢城三の丸正面にあたり、橋爪門、石川門とともに三御門と呼ばれ、
現在の建物は平成23年に復元され、約130年ぶりに往時の姿をよみがらせた
両側の石垣は地元産の戸室石を陵間なく積み上げる「切込接」にしている。
高さ12.33m、幅26.9m、奥行8.2m
河北門(二の門):
枡形内部が二の門の正面となり、石落し付きの出窓(左側)が設けられており、
門扉、柱、梁には厚さ3ミリの鉄板が鋲で止められ、門としての防御能力を高めている。
河北門(二の門)の内部
二の門櫓部分(2階)の内部の壁や床などには檜の一種
である能登ヒバが石川門同様に用いられている。
河北門は北側の高麗門である「一の門」、櫓門である「二の門」「枡形土塀」
および続櫓を持った枡形門形式の機能を持つ。
城内へ出入りする一の門(新丸広場側)
ニラミ櫓台
宝暦の大火で焼失した河北門は石川門と同様に二層の櫓があったが、
安永元年に再建された河北門では出窓付きの土塀によるものとなり復元している。
五十間長屋の二階窓から眺めた河北門
⑦石川門は金沢城の裏門であるが、櫓門と高麗門、二重櫓からなり、
城のシンボルとなっている。門の防御として最も厳重な構えである。
石川橋に通ずる石川門
石川門口
兼六画に向い合って建つ石川門は搦手門(からてもん)と呼ばれる裏門であった。
百間堀園地(旧沈床園)
桜の時期には多くの桜見客で賑わう
二重櫓
鉄板張の唐破風付き格子と海鼠壁になっている
左側の高麗門と右側の櫓門
枡形内の石垣は左右異なっており、
右側は「切込みハギ」左側は「打込みハギ」である
石川門内部には鉄砲狭間も設けられている
金沢城の顔になる石川門は頑丈に防御されている(重文)
石川門の扉
金沢城の顔になる石川門は現存する貴重な枡形門であり、
敵が侵入してきたときに勢いを鈍らせる目的である
(二重櫓から眺める)
石川門の二重櫓の出入口
屋根瓦には鉛を使用。溶かして鉄砲弾に作り替える
ための工夫だったとも言われている。
三の丸広場から眺めた右側から菱櫓、五十間長屋、橋爪門続櫓
明治14年(1891)に焼失し、平成13年に復元。すべて木造で
造られており、木造建築としては戦後最大級といわれている。
菱無櫓は菱形に建築されているのが特徴。また、3層3階の菱櫓と
橋爪門続櫓を2層2階の五十間長屋で繋いでいるのが特徴。
⑨菱櫓
大手と搦手を見張る物見櫓として重要な役割を果たしていた。
建物の平面が菱形(内角が80度と100度)になっており、
視覚を少なくし視野を大きくする効果がある。建物に使われる
柱100本にも菱形がも散られている。建設に高度な技術を要した。
⑩五十間櫓
菱形と橋爪門続櫓を結ぶ多聞櫓て゜武器など保管する倉庫と同時に
非常時に城壁の役目を兼ねている。内部では、日本古来の木造軸工法
と呼ばれる方法と柱と柱を繋ぐ横木を組み合わせた耐力壁によて構成。
釘、ボルトを1本も使ってないにも関わらず耐震性に優れている。
⑪橋爪橋と
橋爪門続櫓
天守閣を持たない金沢城では、二の丸が政治の中枢を担っていた。
その二り丸の正門である橋爪橋を渡り、橋爪門を通って二の丸へ向かう
人々を監視するための重要な櫓であった。
左側が橋爪門続櫓・右側の菱櫓と手前右側が三の丸広場
⑫鶴の丸広場には休憩所が設けられており、前田氏関連の資料が展示されている。
辰巳用水の水路に使われた石管(鶴の丸休憩所に展示)
城内の辰巳用水のルート
辰巳用水と言えば逆サイホンの原理で有名であるが、横穴を穿つトンネル掘削技術が
注目されている。兼六園の脇の溜枡から城の外堀下に落水した水を石川門から
二の丸御殿へ引水されている。これを「伏越しの理(逆サイホン)}という。辰巳用水築造を指揮
した技術者は小松の商人板屋兵四郎で下級藩士として召し抱えられた。平四郎は
寛永9年から工事を始め、日に昼夜兼行で工事を行い、工事の責任者が秘密保持のため
工事終了後暗殺されたという伝説が残る。
辰巳用水の関連ページは
ここへ
クリックして下さい。
⑫鶴丸倉庫(重文)
城郭内に残っている物として国内最大級の土蔵。武具が保管されていた。
幕末の1848年に竣工し、明治以降は陸軍によって被服庫として使用していた。
⑬丑寅櫓跡
宝暦の大火(1759)で焼失した櫓の跡地。本丸から北東
(丑寅
)の方角にあった。
丑寅櫓跡
から眺めた鯉喉櫓台や兼六園の茶店の並びが見え、
卯辰山や医王山などの山々も眺望できる
⑭辰巳櫓跡
本丸の東南角。辰巳の方角に当たることから「辰巳櫓」と呼ばれていた。
金沢21世紀美術館、遠くは前田利家はじめ歴代
藩主のお墓がある野田山や白山の山々が望める
⑮本丸園地
古くは金沢御堂があった場所と伝え、利家が天成14年(1585)頃に
天守閣を設けたが、慶長7年(1602)焼失し、代わりに3階櫓が建てられた。
宝暦の大火まで本丸に御殿がおかれた城の中心であった。
⑯
戌亥櫓跡
本丸の北西角。戌亥の方角に当たることから「戌亥櫓」と
呼ばれていた。西と北に出しという出窓が付いている二層二階の櫓
であったが、宝暦の大火の後、再建されなかった。また、海抜60mあって、
金沢城の最も展望の良い場所。日の丸広場や十間長屋など見下ろせる。
⑰鉄門跡
切り込みハギの技法は、城の重要な部分に用いられている。
本丸への入り口となるここ鉄門の石垣にも「切り込みハギ」が見られ、
石の表面を多角形に施工した優れたデザインで丁寧に造られている
⑱三十間長屋(重文)
二層二階の多聞櫓で、安政5年(1858)に再建。倉庫として使われていた。
建物の長さが26間半。土台の石積みの技法は「切り込みハギ」で、
表面の縁取りだけを揃えて内側を粗く残す「金場取り残し積み」という
技法が用いられている。 建物の長さは48m
この画面をクリックすると拡大します
(バンフレットより)
二の丸広場から見た菱櫓と五十間長屋
、
橋爪門は改修中で完成後のイメージ
菱櫓側から入口となる。また、外壁に見られるモザイク模様の壁。
すなわち、均一に並べられた「海鼠壁(なまこかべ)」が特徴である。
伝統木造工法
日本に古くから伝わる木造軸組みの工法。柱、梁を組み合わせ、
小屋を架ける。柱は桧、角梁は米ヒバ、小屋梁には松丸太を用い、他に能登ヒバ、
赤杉など県産材を用いている。使用した木材5330石の約7割にあたる3830石が県産材
石垣をよじ登る敵を防ぐために設けられた。
出窓床板を開き石を落とす。三面の窓は鉄砲狭間となる。
五十間長屋の出窓が数ケ所ある
二階へ上がる階段
丸御殿復元工事の作業風景
樹齢300年を超す檜材を保管、木材を用いて墨付けや
カンナがけの作業を窓越しに見ることができる。
床下軸組および壁の透視展示
菱櫓一階床下部分と二の丸側壁部分にガラスを入れ、
内部に隠れた部分の様子が分かるように工夫されている。
菱櫓の斜方形と五十間長屋との間に角度があるため繋ぎ部分も角度を持つ
菱櫓の内部
菱櫓・五十間長屋・
の組立て模型
五十間長屋2階窓から眺めた石川門
極楽橋
二の丸と本丸の間にある空堀にかかる橋。
その名は昔この地にあった金沢御堂に参拝する
人々が、朝は念仏を唱えながら橋を渡り、帰りは
夕日を拝んで極楽往生を願ったという。
極楽橋の下には、まとまった種類の刻印石が多いので必見。
⑲いもり堀
金沢城の南西側を囲む外堀。明治時代に旧陸軍によって
埋め立てられたが、2010年に堀と櫓台の石垣を復元。
櫓台の上から水をたたえた堀の眺望を楽しむことができる。
本丸南面の高石垣は、自然石を残す粗割石を積み上げたものを
「割石積み」の石垣の上にあった辰巳櫓跡 (いもり堀側から眺めた)
金沢城は石垣の博物館といわれるほど石垣コレクションである。金沢城公園を歩くと、様々な種類の石垣を見ることができるため、「石垣の博物館」といわれている。主な石垣の種類には自然石をそのまま積む
「野面積
」表面に出る石の角や面を叩いて形を整えた
「打込接
」、さらに方形に整えた石を密着させた
「切込接
」それぞれの場所の石垣を見比べて見るのも城歩きのひとつである。
隅をシャープに整えた「江戸切」が美しい
三十間長屋の石垣
表面の縁取りだけをきれいにそろえ、
内側を粗いままにしておく「金場取り残し積み」
この石垣は「打込み接」の積み方に見えるが
石の陵間に小石を填め込み「切込み接」技法
石川門の石垣は左右の積み方は一目瞭然
右側は「切込みハギ」左側は「打込みハギ」
「刻印石」は石工職人のチームロゴで
金沢城には200種以上ある。
鉄門の石垣
「切込み接」は石の表面を多角形に
加工した優れたデザイン
文筆は一部「金沢城公園」ガイドブックや
パンフレットなどから参照させていただきました
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