仏御前の滝          祇王 
    
 仏御前物語の動画(子供歌舞伎上演の一コマ) 

平成21年お旅祭り(歌舞伎役者紹介

 
                 仏御前の生涯(あらすじ) 
 仏御前は1160年加賀国原村(現:小松市原町)に生まれ、その後、京都で白拍子として名を挙げ、当時の権力者であった平清盛を訪ねる。その当時は清盛の寵愛を集めていた白拍子の妓王の誘いで、清盛の前で即興で今様を詠み、「君をはじめて見る折は、千代も経ぬべし姫小松 御前の池なる亀岡に、鶴こそむれゐてあそぶめれ」と歌って舞を見せ、清盛にいたく気に入れられ、寵愛を受けるようになる。(この物語は平家物語大巻6「妓王」に登場する)
 しかし、反対に妓王は清盛に屋敷から追い出されることになる。そして。祇王は襖に「萌え出づるも枯るるも同じ野辺の草いづれか秋にあはではつべき」と筆書きして館を出る。仏御前も「そのうち私も同じように捨てられてしまう・・・」と世の無常を感じ、妓王を追って17歳の1177年に清盛の元を離れ出家し、嵯峨野にある祇王寺に入寺する。祇王寺には仏御前、清盛から離れた妓王とその母、妹がおり、同じく仏門に励んだ。やがて、仏御前は清盛の子を身ごもっていることを知り帰郷。途中、吉野谷村の木滑で清盛の子を産むも死産。故郷、原町に着いた仏御前は静かに余生を過ごし、21歳の若さで亡くなったとされる。
 
                        
     JR小松駅から白山に向かって南へ、車で20分ほど行くと
     「仏御前の里」(小松市原町)があります。

 

  仏御前安置所(小松市原町)

仏御前の尊像は村の一般家庭で守られてきて、
昭和の初めから現在の家に安置されている


 

広間にある安置所

 
                        



在りし日の仏御前の面影を偲ばせる平安朝作風の乾漆座像



 林美江さんの話

仏御前の尊像はお寺やお堂に安置してきたのでなく、800年の間、ずっと一般の家々でお守りしてきました。昭和の初めに家でお守りするようになりましたが、それまでは床屋さんや信仰心の篤い家を転々としてきました。乾漆像なのでケースに保管したままでは呼吸できなくて傷んでしまいます。朝にお厨子を開け、夕方には閉め、信仰の対象として大切にお仕えすることで像を守ることになりました。毎年の9月16日の「仏御前まつり」には白拍子の舞を奉納し、町内の方々が集まって縁起を読んでいます。信仰に支えられた仏御前の一生をこの静かな山あいの地で偲んで下さい。 (:平成10年取材)

白拍子(しらびょうし)
 独特の歌舞を舞った平安時代から鎌倉時代の舞妓。直垂(ひた たれ)や鳥帽子(えぼし)などを付け、男装をして舞った。



 
 平清盛の寵愛を受けた白拍子の仏御前を偲ぶ「御前様祭り」は仏御前の命日とされる16日、小松市原町の林成人方で営まれ、女子中学生が「白拍子の舞」を仏御前尊像の前で奉納した。立鳥帽子に白の水干()姿の同市中海中1年生の2人が優雅に舞った。また、原町文化財保存会員の林さんが、仏御前の生涯を綴った「仏御前影像略縁記」を読み上げた。そして、奉納に続き、原町会館前に設けられたステージで「座・白拍子舞台」が行われ、中海中1年生の2人による白拍子の舞を舞った。同町では仏御前が14歳で上京したことにちなみ、数え年の女子中学生が、観光客に源平ロマンを深く感じてもらおうと舞を披露している。また、17日には、こまつ芸術劇場「うらら」で「NHKニュースワイド」などでお馴染みのキャスター・平野啓子さんが「仏御前と祇王」と題して2人の女性の生き方と魅力について講演があった。



仏御前尊像の前で「白拍子の舞」を奉納する










原町公民館広場の舞台でも舞う中学生



こまつ芸術劇場「うらら」で舞う2人






仏御前の墓・屋敷跡

 
                        
仏御前の石祠(右)と2の墓石(左と中央)

 

林の中に荼毘の地があり、くま出没に注意と書かれている

三の滝


 -       仏御前荼毘(だび)の地

1180年に亡くなった仏御前はここで荼毘に付された。
今は石堂と五輪塔だけが残っている


 
                        
石堂と五輪塔

 

           吉野谷村の木滑神社
仏御前が京から故郷に帰る途中、清盛の子を出産するときに寄りかかったとされる石が残っている。安産のお守りとして信仰されている


 

木滑神社の横にある お産石の小堂

 
                        
仏御前が出産のとき寄りかかったというお産石


 


 福井県大野街地から国道158号線を進んで仏原ダムを通過すると琴洞橋の手前に仏御前の滝の看板がある。駐車場から約10分で350mの階段など整備された遊歩道を登ると日本百名山の一つ荒島岳から三段にわたって約100mの落差から落ちる水しぶきが周囲に広がる新緑を潤してくれる。この滝は仏御前が故郷へ帰る途中、この滝で顔や髪を洗ったこととされる由来がある

 
     
               仏御前の滝の案内看板                   

 
                        
250段ある階段

 

階段のあと滑らかな遊歩道


 

仏御前の滝

 




 



 
 今回は、嵯峨野の奥に位置し、「平家物語」に登場する女性たちと平清盛の哀しい物語で有名な尼寺、祇王寺を紹介します。祇王寺は大覚寺塔頭の尼寺で法然上人の弟子良鎮が創建した往生院の跡に建てられたそうです。往生院は江戸時代末期まで広大な敷地を占めていて、明治時代に荒廃してしまいました。往生院に残る哀しい物語に心を動かされた京都府知事によって、尼寺「祇王寺」として残されたものです。この祇王寺は竹林に囲まれ、ひっそりと佇んでいます。入口をくぐるとあまり広くない苔の庭、新緑が美しく若竹の緑の風が流れ、蝉の声は暑さを感じさせない。境内に唯一ある茅葺きの本堂には祇王ら4人と清盛の木像が安置されている。また、「吉野窓」と呼ばれる丸窓も見どころになっている。境内では四季折々の風景が楽しむことができ、紅葉の時期にもう一度訪ねて来たいところでもある。今、人里離れた静かな嵯峨野の地に立つと、ここで残りの半生を尼として過ごした女性たちの心中はいかばかりだったかが偲ばれる。哀しい物語に思いはせつつ、祇王寺を訪れてみませんか。

 


祇王寺の正門


 


苔の庭園が美しい

 


 


本堂

 


仏壇には本尊大日如来、清盛公、祇王、祇女、母刀自、
仏御前の木像が安置されている。祇王、祇女の像は鎌倉末期の
作で作者は不明、眼が水晶で鎌倉時代の特徴をよく表している。



控えの間の吉野窓
光の入り具合によって影が虹色に映ることから虹の窓と呼ばれている




祇王寺を囲む竹林


 



 


左側は祇王、祇女、母刀自の墓
右側は五輪塔で清盛公の供養塔

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