明治、大正時代の近代和風建築の特徴を伝える重要文化財・旧三井家下鴨別邸(京都市左京区)の一般公開(平成28年10月1日)が始まった。多くの市民や観光客が、見晴らしの良い望楼を持つ主屋の内部や、茶室の外観を眺められる庭園の見学を楽しむことができる。
旧三井家下鴨別邸は、下鴨神社の南に位置し、三井家11家の共有の別邸として三井北家(総領家)第10代の三井八郎右衞門高棟(たかみね)によって建築された。この地には明治42年(1909)に三井家の祖霊社である顕名霊社(あきなれいしゃ)が遷座され、その参拝の際の休憩所とするため、大正14年(1925)に建築されたのが現在の旧邸である。建築に際しては、木屋町三条上るにあった三井家の木屋町別邸が主屋として移築された。 昭和24年(1949)には国に譲渡され、昭和26年(1951)以降,京都家庭裁判所の所長宿舎として平成19年まで使用された。近代京都で初期に建設された主屋を中心として、大正期までに整えられた大規模別邸の屋敷構えが良好に保存されており、高い歴史的価値を有していることから平成23年に重要文化財に指定された。
主屋は、三階に望楼をもつなど開放的な造りで、簡素な意匠でまとめられている。また玄関棟は、和風意匠を基調としつつ椅子坐式の室内構成として天井を高くするなど、近代的な趣をもつ。茶室は、次の間に梅鉢型窓と円窓を開けるなど特徴ある意匠にないる。.
旧三井家をたどった歴史的な背景
江戸時代前期の慶長年間に越後守三井高安の長男高俊が武士を廃業して松坂に質屋兼酒屋を開いたのが、商人としての三井家の始まりです。高俊の四男の高利は、長男高平を江戸に送り呉服屋「越後屋」を出店し、高利自身は本拠を松坂から京に移しました。高利の指図で越後屋は急速に業績を拡大して、幕府の納戸御用や元方御用を承るほどになりました。また両替商もはじめ、元禄3年(1690年)には幕府の為替御用を受けるようになり、高利・高平の北家が三井家惣領の座を確立しました
高利の死後、その莫大な遺産は嫡男高平以下子供たちの共有とされ、各家は家政と家業の統括機関である「三井大元方」を設立し、一体となって三井家を運営しました。男子の家系の6家を本家、女子の家系の5家を連家、あわせて「三井十一家」と呼びました。
以下の三井家とは上の「三井十一家」のことです。京都の呉服商だった三井家は養蚕の神「木嶋神社」(蚕の社)を信仰しており、宝暦元年(1751)、顕名霊社(あきなれいしゃ)として勧請し、神社内に社殿を設けていました。NHK連続テレビ小説「あさが来た」の主人公白岡あさの実家のモデルは、江戸期には「出水三井家」といわれた本家の一つで、明治には東京小石川に移り小石川三井家となりました。
明治7年(1874)、廃仏毀釈の中で顕名霊社は木嶋神社から京都・油小路の三井総領家邸内への遷座を余儀なくされました。三井家は、明治31年(1898)に下鴨神社の「糺の森」の南にあるこの地一帯を購入しました。明治42年(1909)は三井家の遠祖・三井高安の300年忌にあたり、三井家の祖霊社である「顕名霊社」をこの下鴨の地に遷座しました
その後、三井家は宿舎や茶室の新築・移築を進めるなど、下鴨別邸として整備していきました。京都に複数あった三井家邸の中でも特別の意味を持つ場所だったそうです。大正11年(1922)に社殿を造替え、主屋は鴨川下流の「木屋町別邸」から移築され、増築を加えて大正14年(1925)に竣工しました。木屋町別邸は三井総領家第8代当主・三井八郎右衞門高福が明治13年(1880)に建造し、9代当主・高朗の代まで居住していました。
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