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江戸時代の旧福井藩主、松平家別邸はその優美な名園のひとつとして知られている。また、米国の庭園専門誌発表の「日本庭園ランキング」において2008年から3年連続3位に選ばれた。2013年は6位になっている。
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庭園内マップ
この庭園は数寄屋風建築や回遊式林泉庭園をそなえる江戸中期を代表する名園の一つである。かっては福井藩主松平家の別邸であり江戸時代には「御泉水屋敷」と称されいた。御泉水屋敷の成立時期は定かでないが、三代忠昌時代に藩邸となり、芝原上水を引き込んで御泉水屋敷となったと伝えられている。この御泉水屋敷が今見るようになったような姿に整備されたのは7代藩主昌明の時とされ、従来の御泉水屋敷である「本御泉水」の改造、整備に加え西隣りに「新御泉水屋敷」を建て自らの隠居所としたが吉品の没後、その規模は元の御泉水屋敷の敷地に戻り、茶会、藩主一族の休養の場、住居などに使われた。
明治維新によって福井城は政府所有となり、御泉水屋敷の敷地は引き続き松平家の所有地として迎賓館の機能を果たし、明治17年に松平春嶽によって
「養浩館」
と名付けられた。養浩館はその数寄屋風屋敷や回遊式林泉庭園が早くから注目され。学術的にも高い評価を受けていたが、昭和20年に福井空襲により惜しくも焼失し、その後長く本格的な修理が行われませんでした。しかし昭和57年、国の名勝に指定されたのを機に福井市による復原事業が決まり、文政6年(1823)に造られた「御泉水指示図」を基本に学術的な調査と復原整備工事が進めまれ、約8年の歳月の後、平成5年に完成し一般に公開された
パンフレットより
養浩館東門入口で受け付けし、入場料大人210円を支払う
受付を済ませてお茶屋から屋敷に入る
屋敷の見取り図
「御台所」から内池を望む
御上り場・御湯殿
屋敷全体に対して蒸風呂を備えた御上り場・御湯殿の占める割合は大きく、
くつろぎを旨とした別邸ならでらの構成になっている。
御湯殿
風呂を構えた「御湯殿」とその前面の「御上り場」と後方の釜場となる土間
「金砂子ノ御間」から庭を望む
鶏鳴の板戸で廊下境となる板戸で鶏をモチーフにした絵
「御月見ノ間」は東、西、南からそれぞれの月の姿を愛でる離れ屋敷
脇棚の螺鈿(らでん)細工
「御月見ノ間」雲窓の出書院
流れ(遺水)と月見台(右側)
隙
「御座ノ間」から庭を望む
隙
「御座ノ間」周辺の飛び石と池
隙
「御月見ノ間」から飛び石と自然石の石橋(左側)
「御座ノ間」から見た景観
で池面(2300㎡)が広がる
御
「御座ノ間」 旧福井藩主・越前松平家の別邸の屋敷
屋敷の中心となる部屋で、藩主の座が設けられ、床と脇棚、出書院が設けられている
華やかさとは異なる日本独自の美
後方には二峰の長大な築山があったことが「御泉水指図」から推定される
屋根は柿葺き(こけらぶき)で約10万枚のスギの柿板が使用されている。
柿葺きは木材の薄板を使った伝統技法
復原遣水(やりみず)
当初は芝原上水の清水が豊富に流入していたが、取水口は現在の道路下
にあり、取り水は困難で井戸水をポンプで汲み上げ還流させている。
池とこれに注ぐ幅広い遺水(やりみず)に囲まれるように2棟の建物が雁行してみられる。
右手が御月ノ間、左手が御座ノ間
「清庵」と名付けた少亭ですべてケヤキで造られ、
岬の石組とよく調和して景観の要となっている
園地西側から見た屋敷の主要建物群
池の東側に接して設けられた数寄屋屋敷、御湯殿など水面に浮かぶ簡素な姿を見せる
動物が座っているにも見える岩島が景観の焦点。岩石の周辺には玉石が
州浜状に敷き詰まれている。排水路には曲線の美しい切石橋が架けられている
園内は遊歩道があって一周できる回遊式
月
養浩館庭園から400㍍の位置にある福井城跡
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