竹田城の全景
    別名  虎臥城(とらふすしろ)
d  所在地 兵庫県朝来市和田山町竹田
   種類  梯郭式・山城
   築城 1443年(嘉吉3)山名持豊(宗全)
      1592~1600年(文禄1~慶長5) 
       赤松広秀、羽柴秀長、
   天守  なし
   遺構 天守台 、石垣、土塁
   特徴 ○雲の上にいるような空間
       ○山上の野面積の石垣群
       ○眼下に広がる展望
       ○死角なく横矢に掛けられた曲輪 
    

 
 
 竹田城の見学コース
 竹田城の凄いところは縄張(レイアウト)が天守台の本丸を中心にして、三方向に曲輪が階段状に広がり、そのために竪横に石垣の塁線がずれて幾重にも重なる造形美を生み出していることである。雲海を目当てに観光客が激増したため竹田城周辺の整備が進み、道案内板が増え、登城しやすくなった。第1駐車場(山城の郷)に車を止め専用のチャータバスかタクシーに乗り換え、中腹駐車場から遊歩道を歩いて大手門に向かいます。
大手門、北千畳、三の丸、東の丸、二の丸と道なりに進めば本丸に着く。枡形虎口や石垣そして遠方を見渡して、確実に敵の動きを監視できる立地の良さを確かめることができる。今回は天守台に登って360度のパノラマを堪能できなかったが、(天守台立ち入り禁止)右手に迂回して花屋敷、南二の丸、南千畳へ向かって一周する見学コースを歩いた。
 竹田城の歴史と特徴
 竹田城は、標高353㍍(天守台)の古城山の山頂にある総石垣の山城で、別名は虎臥城(とらふすしろ)とも呼ばれている。この地は、京に通ずる山陰道と播磨からの播担道が交わる地点で、古くから交通の要衝であった。また、生野銀山も近くにあることで、古くから重要な拠点として認識されていた。
 1431年(永享3年)但馬国の守護である山名持豊(宗全)が築城に着手し、1443年(嘉吉3)に完成したと伝えられている。織田信長の中国攻めで、1580年(天正8)羽柴秀長が落とし、秀長の配下である桑山重晴を城に配した。桑山重晴が転封になると、1585年(天正13)赤松広秀が城主となり石積みを整備して今ある姿に改修した。
 古城山の最高地点に本丸を置き、屋根筋の広がりに合わせて、北方向に二の丸、東の丸、北千畳の曲輪、南方向に南二の丸、南千畳の曲輪、西方向に花屋敷の曲輪が梯郭状に展開された縄張りを持ち、天守台に立つと大規模な総石垣の威容な姿を見渡すことができる。
 山城は自然の地形を利用して、必要最大限の工事で防御施設を造るというだけあって、この城の石垣に使われた石の量には圧倒される。石垣は野面積みで高さが10メートルを超える場所もある。積まれた当時のままのところが多く、石積みの技術の高さを示している。 
 竹田城の規模は
東西約100m、南北約100mで今なお威容を誇っている。 この城を著名にしているのが何といっても晩秋から早春にかけての早朝、円山川に発生する川霧に浮かぶ威容さである。向いの立雲狭から見る川霧の雲海に石垣群が浮かぶ様はまさに天空の城で、山城マニア以外にも多くの人を魅了している。(ガイドブックより)
 天守台は2013年11月に石垣からの転落事故が発生して以来、入場禁止になっているが、半年以上が経つにもかかわらず期待された草は生えず、土の流出が続いている。表土が深さ約5~10cmはがれた状態となり、1500年代とみられる遺構面が露出し、天守台の土台部分の石の列がはっきりと確認できるという。市によると、同城跡の観光プームが始まってから約5年の間に雨で石垣の隙間などから流出した土の量は約10トンに上るとみられる。「史跡保護と見学者の安全性を確保するためとして、2014年3月に仮設したが、見学者が入れる場所を仕切るロープエリアを広げる対応をとっている。南千畳では、見学者が入れる場所をロープで仕切り、人が入れない場所には草が生い茂っているが、人が入れる場所は草がなくなり、水で土が流されるところがあった」という。                                        (朝日新聞2014年6月17日付の記事)
川霧に浮かぶ竹田城を見るには・・・・

夜間に冷やかされた空気が、早朝、円山川の川面の水温よりも低くなると川霧が発生し、谷などの低い部分にたまると、山の高い部分が取り残されて、竹田城が雲の海に突出して見える。この川霧による雲海が出る時期は、9月下旬~4月上旬である。インターネットの朝来市のサイトによると「日本海に高気圧の中心があり、良く晴れて、朝と日中の気温差が大きいこと」が川霧が出やすい条件という。刻々と表情を変える霧に浮かぶ竹田城を一見の見る価値がある。
                                                
   
 

「山城の郷」からチャータバスに乗り換えて1.4kmの中腹駐車場まで行きます。

    

「山城の郷」から竹田城跡を眺める




中腹駐車場にある竹田城の山門




標高700mの料金所(標高差100m)で300円を支払う。




ここから約25分の坂道(遊歩道)を登ると竹田城の石垣が見えてくる。




竹田城に到着するといきなりの石垣群が見える。




北千畳東側にある大手門跡の石垣
枡形で城外から向かうと左L字に折れて、右側には
櫓があったようで横矢が掛けられた構造である。




大手門に続く枡形虎口
石垣は最も古い時代の野面積みで穴太衆が手がけた一級品である。


 

石垣は広範囲に残存し、「算木積み」が大成する過渡期の隅石も貴重で
隙間に小さな石を詰めて調整したり、未完成ながら古い石垣が随所に見かけられる。

 



   広い曲輪の北千畳から山々を眺める



二の丸まで枡形虎口が続き、防御性を高めている。
虎口(こぐち)とは出入口のこと



連続する枡形虎口を上から見る


 
北千畳から眼下に見られる街並み
北千畳は眺望がよく、どこから敵が攻めてきても発見できる場所。

 
北千畳から見た遠方の南千畳・南二の丸
折り重なる塁線は美しいだけでなく、完璧に側面攻撃できる横矢を
架けられるというメリットがあり、カーブを描くように曲輪を配し、
そのラインに沿って石垣を築くことで死角をなしている。





二の丸からの天守台
歩道は至るところにシートが敷かれていて歩きやすい


 

二の丸から見る天守台の全景

                            
 
天守台の入口は立入り禁止。
1013年11月に転落事故が発生して以来「立入り禁止」になっている。


  
石垣の職人である石工職人集団・穴太衆とは
安土城築城のとき織田信長が登用して、全国に活躍の場
を広げた近江坂本の石工職人集団。石上の重荷が
かからないように積まれ、美しく耐久性が高いのが特徴


 

天守台の石垣の積み方は「野面積み」で、自然石を
そのまま積み上げたもので、荒々しく感じるが人気がある。

 
  
天守台
本丸は地形を生かした多角形。石垣で囲まれ、そのラインからせり出す
ように城の正門にあたる東面に突き出しているのが
天守台である。
       



本丸から西側に張り出した花屋敷
断崖に造られた竹田城の背後を守る曲輪。急な階段を石垣が
敷地面から飛び出しているのは塀などの防衛設備があったからである。




南二の丸
南千畳の境目にある搦手口(裏口)にあるのが
南二の丸




石垣のひときわ大きな石に手を触れると「
金運アップ」するらしいとのこと。
 本丸の石垣群は、崩れそうになりながら踏ん張って支えていて、たくましく感じる。



城内最大の曲輪が
南千畳
天守台から見た南千畳方向、各曲輪が段をなして続き、
変化に富む石垣が見られる様は城跡で一番の見所である。


 

南千畳から振り返って見た天守台・北千畳の全景

 

南千畳から見た天守台

 

ステージのようにせり出した石垣


 
竹田城見学コースは一方通行なので南千畳から
の降り口にも最後の石垣を見ることができる。

文筆は一部「竹田城を歩く」やガイドブック、
パンフレットなどから参照させていただきました