徳川家康は旧豊臣勢の籠もる大坂城を押さえるために新城を築城した。大坂の北西、篠山盆地の丘陵地に藤堂高虎が縄張りし、普請総奉行は池田輝政が務めた。各大名に手伝える天下普請で約半年で完成し、天守台は築かれたが、天守は建てられなかった。方形の縄張りで、広い堀と馬出、そして高石垣を備えた高虎城である。     
    別名  桐ヶ城

d  所在地 兵庫県篠山市
   種類  梯郭式、輪郭式の平山城
   築城 1609年(慶長14)
       徳川家康
   天守  なし

   遺構  石垣、堀
       
    

 

篠山城の周辺マップ


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                        篠山城復元模型
      
外堀内の篠山城の姿を復元した模型。石垣、犬走の様子や二の丸に
      多くの建物があったことや三の丸の四隅に櫓があったことなどが分かる。

 

篠山城の正面




犬走
犬走は石垣の補強のためと、敵を攻撃するための足場として造られたもの。
篠山城では本丸、二の丸の周辺にあり、屈曲した石垣に沿って設けられている。




篠山城の登城口の正面で北廊下門跡




大手門跡
大手門跡から二の丸に至るまでには頑固に2つの枡形が形成されている。







枡形とは大手門と鉄門の間にある侵入の敵軍の動きを妨げるための方形の広場




鉄門
二の丸に至る最後の城門。櫓門形式の門があって門扉が鉄板が張られていた。




大書院側から見た鉄門




大書院の正面
大書院は慶長14年(1609)の篠山城築城とほぼ同時に
建てられた。約260年にわたって藩の公式行事などに使用された。
しかし、昭和19年に火災で焼失、大書院を復元するに至って古絵図、
古写真発掘などの総合的な学術調査により平成12年3月に復元再建された。




大書院の唐破風の屋根(車寄部分)



屋根は大書院続きの資料館(北西から)

 

二の丸御殿跡
藩主の平素の居館があった二の丸はかなりの広さがあり、
現在は大書院以外の建物は失われているものの礎石など整備されていおり、
建物の様子が分かるようになった櫓門形式だったことがわかる。

 



   二の丸から天守台を望む




井戸屋形と大書院




井戸屋形
城内にある3つのうちのひとつで奧御殿で使用された実用的な井戸


 
埋門(うずめもん)
二の丸を囲む石垣の南面中央に位置する。櫓門の形式で
  搦門に通ずる門で、非常時には埋めて遮断することになる門。


 
南面から見た大書院
大書院は木造住宅建築としては非常に規模が大きく、
現存する同様の建物の中では京都二条城二の丸御殿
の遠待と呼ばれる建物と部屋割りや外観がよく似ている。



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天守台の石垣




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天守台の階段


 

天守台の上部
天守台は東西19m、南北20mで石垣は本丸内側からの
高さは約4m、外側は約17m。天守は建てられなかったが、南東隅に4m
四方の一重隅櫓が建てられた 。石垣は穏やかな扇の勾配となっている。

  
  


外側から見た天守台の石垣で高さが17mある。
本丸・二の丸の石垣は高石垣で囲まれている。


  
石垣の刻印
篠山城は天下普請で造られ、20名の大名が参加したため、
各大名は自らが調達した石で分かるよう刻印を彫った。
写真の右側は「三左の内」の符号から普請奉行池田三左衛門輝政の
家臣の担当であることが分かる。この工事区割りを示す符号は約150種と多様である。
 



大書院の内部には城の模型、歴史資料の展示、
藩主の着座する上段の間など八つ部屋がある。
(内部はフラシューなしの撮影は許可されている)


 






草花小禽図屏風
篠山藩主青山家に伝えられていたもので、金地に草花と
小鳥が巧に描かれている江戸時代後期、狩野養川の手によるもの。




篠山城の梵鐘
この梵鐘は4代松平康信が二世安楽を願って造り、城中の道場にかけていた。


 

上段の間
大書院で最も格式の高い部屋で次の間より一段高く、
部屋は付書院、大床、天袋、違棚など正規の書院。
障壁画は往時の雰囲気をできるだけ再現させるため
江戸時代の狩野派絵師が描いた屏風絵を襖として転用した。


文筆は一部「篠山城を歩く」やガイドブック、
パンフレットなどから参照させていただきました