倶利伽羅の合戦で敗北した維盛をはじめとする平家の将兵は南へ逃げ、現在の金沢港付近の宮腰あたりで集結した。体制の立て直しを図った維盛の軍は、追って来た義仲の軍とここで十日余りにらみ合ったが、再び退却を始めて、小松市の安宅にたどり着いた。
 義仲は焦ることになく兵馬を休ませ、加賀の有力な神社との結びつきを強めながら、追跡陣を進めた。源平両軍は安宅の梯川河口で再び戦いにおよんだ。
 京を出発した時に十万を数えていた維盛軍は、倶利伽羅峠の合戦の敗戦で六万に減り、これに対して、勢いに乗る義仲軍は五万、両軍はそれぞれ入れ替わり立ち替わり数百騎が前に進み出て刃を交わしたが、すでに維盛軍に敵を押し返す力は残っていなかった。樋口兼光、今井兼平ら「義仲四天王」、石黒光弘、富樫泰家など諸将の奮闘で、維盛軍は後ずさりを始めた。
 浮き足立った維盛軍は安宅を跡にした加賀市の篠原まで退いた。ここですでに総崩れとなっていた維盛軍の兵士は逃げ惑うばかりで、敵に立ち向かう気力のある者はほとんどいなかった。
 こうした平家方の敗残軍のなかで、ただ一騎で敵と斬り結んだ武将がいた。かって、源義朝の命令で殺されそうになった、幼少の義仲を木曽の中原兼遠に託して救った斎藤実盛である。斎藤実盛は源義朝に仕えていたが、義朝が平清盛に討たれた後は時の流れには逆らえず、平家方の武将となっていた。
 実盛は平家に対する義理を立て、維盛軍に属して北陸を転戦していたのである。実盛が情けをかけて命をかけて救った時、まだ二歳であった義仲は、立派な大将になって目の前の源氏軍を指揮していた。
 過去の縁にまつわる万感の思いを振り切って、実盛方と向き合った。斬りかかってきたのは義仲の支配下の手塚光盛であった。老齢の実盛は勇敢に戦ったが、若い光盛にはかなわず、討ち取られた。その周りには、すでに踏みとどまる平家の兵士はいなかった。
 こうして、篠原の合戦は幕を引き、平家軍は京の都に向かって敗走を重ねるのである。
 
                        
源平合戦が二度にわたって刃を交えた小松市の梯川(かけはしがわ)河口付近 (安宅)

 

篠原古戦場跡(加賀市)

 

首洗池

樋口兼光が実盛の首を洗った池

 
                        
首洗池の標石

 

恩人である実盛の死を悼む木曽義仲と家来たちの像
(首洗池の傍らにある像)

 

首洗池の傍らにある芭蕉の句碑

実盛への思いを込めた
「むざんやな 兜の下のきりぎりす」
の句が刻まれている。

                     
 平成六年三月 新美術協会員、石田成瑜氏の書かれた
平家物語「篠原の戦い絵図」をもとにあらすじを解説します。
(この絵図は首洗池の休憩所に掲げてあります)
           
12世紀初頭まで諸国の大半は平家一門の支配下にあったが、
治承四年11年(1180)に源頼朝や木曽義仲らが挙兵すると、能登や
    加賀でも平氏の支配下に不満を持つ者たちがあいついで兵をあげた。   
 
 

寿永2年(1138)、加賀・越中の国境の倶利伽羅峠では平氏の
大軍が義仲の奇襲を受け大敗。勢いついた源氏の軍勢は
北國街道を手取川から能美、江沼へと追いかけた。

 

迎え撃つ平氏の軍勢は加賀市の篠原にかかる松林に陣を
立て直し、義仲軍との決戦を図りました。しかし、義仲軍の勢いは
予想以上に強く、しっかりとした布陣もできず四散していまいました。


                 
 
  加賀市の片山津海岸から約五百メートルほど離れた篠原地内には、実盛の亡きがらを祀った「実盛塚」が今も残っている。地元の人々は、毎年八月に「実盛塚」で供養祭を開催しており、この日は中学生が塚の前で踊りを披露して実盛を慰めている。「実盛塚」の近くに住む人によれば、塚で堂々と枝を広げる松の古木全体が実盛の兜を表しているという。 恩人である実盛の死を悼んだ木曽義仲は、実盛がかぶっていた兜を小松市上本折町の多太神社に奉納しており、国の重要文化財に指定された。この兜は今も同神社で大切に保管されている。
 「実盛塚」から東へ約1.5キロメートル離れた柴山潟の傍に、「首洗池」がある。小さなこの池の脇には、二人の家来を従えた義仲が、実盛の首を抱きかかえて涙にくれる姿の銅像が建っている。潔く、見事な死に花を咲かせた実盛にまつわる逸話は、今も多くの人々の心を捉えている。

三の滝

篠原の合戦で討ち死にした斎藤実盛が葬られた実盛塚


 
                        
堂々と枝を拡げる松の古木全体が
実盛の兜に似ているという。

 
  篠原と同様、二度にわたり源平合戦の舞台となった小松市の梯川河口そばに、安宅の関所がある。梯川河口で戦った義仲方の富樫泰家は、歌舞伎の「勧進帳」では、平家が滅った後、源頼朝に追われた義経主従と安宅の関所で出会うことになる。関守の泰家が義経と弁慶であることを知りながら関所を通すストーリーは、色あせることなく今日まで語り継がれてきた。義仲の下で平家と戦った泰家は、その義仲と平家を滅ぼした義経が山伏に身をやつして逃亡する姿を目にしている。そんな泰家の胸中には、さぞかし盛者必衰(じょうしゃひっすい)の無情観が溢れたことであろう。


 

安宅の関所に建つ左から義経、弁慶、富樫の像

三の滝

富樫泰家像

義仲方の富樫は「勧進帳」でも平家が滅びた後
源頼朝に追われる義経、弁慶主従と安宅の関で出会う



 
  幼い頃の木曽義仲の命を救い、最後は篠原(加賀市)でその義仲が率いる軍勢と戦って散った斎藤実盛。この生きざまを伝える物語から浮かぶ人物像は、情けに厚く、凜として気高い「武士の(かがみ)」である。
 斎藤実盛は武蔵の長井庄(埼玉県熊谷市)を本拠地とした武将だが、生誕は越前とされ、一説には加賀で生まれたとも言われている。いずれにせよ、北陸の出身であり、義仲追討を目指す平維盛の軍に属して北陸に向かったのは、生まれた故郷で最期を迎える覚悟を決めたからであると言われている。
 北陸へ出陣した時、実盛は老齢七十歳を越えていたとはいえ、知人の多い北陸で見苦しい死にざまは見せられない。そう考えた実盛は白髪を黒く染め、あでやかな赤地錦の直垂に萌黄縅(もえぎおどし)の鎧を身につけて出陣した。倶利伽羅峠の合戦で平家が敗け、敗走を重ねて篠原まで退いた実盛は、ここで義仲方の手塚光盛と一騎打ちにおよび、討ち取られる。
 二歳の時に実盛に救われた義仲は、実盛の首を見て、すぐには誰であるか分からなかった。しかし、実盛を知る「義仲四天王」の樋口兼光がピンときて首を洗ったところ、みるみるうちに黒髪が白髪に変わり、実盛であることが確認された。命の恩人を死に追いやったことを知った義仲は、人目もはばからずに涙を流したという。義仲は供養のために、実盛の兜を小松市の多太神社に奉納している。

 

平氏の武将斎藤実盛は、「この戦いはもはやこれまで」と
赤地錦の直垂、黒糸威しの兜で着飾り、さらに、老武将と
あなどられては武士の恥と白髪を黒く染めて出陣しました。
 

敗走した軍勢の中で、ただ、一騎うずくまった実盛は
義仲軍の武将、手塚光盛の呼びかけに応じず、斬り合う
こと数回、ついに手塚光盛の刀により討ち取られました。
 

手塚光盛とその仲間、樋口兼光は、高貴な衣装を身につけた黒髪の
武将を不思議に思い、近くの池で、その首を洗ってみたところ黒髪はたちまち
白髪となった。それはまぎれもない平家の武将斎藤実盛の姿であった。
 

驚いた光盛と兼光は、その首をすぐに木曽義仲に
差し出した。義仲は幼い頃、斎藤実盛に命を
助けられたことを思い出し、さめざめと涙を流したのです。
 

義仲は実盛の亡骸を近くの松林に手厚く葬りました。
 かっての穏にすがることはなく、その名を必して武士らしく立派な
  最後を遂げた実盛は、現在も多くの人から畏敬で慕われている。

 
                        
首洗池

 

実盛の首を抱いて悲しみにくれる木曽義仲の像と実盛の兜

 

 

小松市上本折町の多太神社

木曽義仲が戦勝祈願し、実盛の兜と鎧直垂を奉納した。

 

斎藤実盛像(小松市多太神社境内)

 
                        
奉納された兜の像 (小松市多太神社境内)

 
                        
実盛の兜 (小松市多太神社に保管・国指定重要文化財)

 

多太神社の社殿

 
三の滝



 
  潔く、見事な死にざまを見せた実盛の最期は、義仲や当時の武人だけでなく、後世の人々の心をも強く引きつけた。実盛が討ち死にして寿永二年から二百年余りのちに実盛を芸能の世界で紹介したのが、室町時代初期に父、観阿弥と能楽を大成させた世阿弥である。世阿弥が作った謡曲「実盛」は次のような筋書きになっている。
ーー応永二十一年(1414)、篠原を訪れた時宗十四世遊行上人の前に、実盛の亡霊が現れた。その亡霊から無念のために成仏できないことを告げられた上人が念仏を唱えると、実盛の霊はたちまち成仏したーー
 世阿弥の時代から三百年近く後の江戸時代前期には、俳人、松尾芭蕉が多太神社にある実盛の兜を見て、後世に残る名句を詠んでいる。
            「むざんやな兜の下のきりぎりす 」            
 悲壮な思いを胸に死出の旅路についた実盛に寄せる、芭蕉の深い心情がにじむ俳句である。世阿弥や芭蕉といった偉大な芸術家の心を捉えた実盛の魅力とは、筋を通して生き抜いた、花も実もある武士のすがすがしさでなかろうか。
 加賀市の「実盛塚」「首洗池」、「小松市の多太神社」は、今なお実盛の生き方の「美学」に引かれる人々の来訪が絶えない。

 

多太神社の参道に建つ松尾芭蕉像

 

参道脇の松尾芭蕉の句碑
       
参考文献 「平家物語を読む」講座より聴講
「北陸平家物語紀行」
「加賀能登の合戦」
             

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