豊国神社境内の豊臣秀吉像
所在地 大阪市中央区大阪城1-1
別名 金城、錦城
種類 輪郭式・平城
天守 望楼式、五重八階
築城 1583年(天成8) 豊臣秀吉
1620年(元和6) 徳川幕府
主な城主 豊臣秀吉・松平氏、徳川氏
主な遺構 (国重文)大手門・多聞櫓
千貫櫓・乾櫓・一番櫓・六番櫓など
特徴・見所
○徳川幕府が築いた天下一のお城
○ 現存する櫓や門に注目
○:日本一の高石垣と巨石
城内マップ
大阪城は本丸、二の丸が昔のままほぼ完存している。まずは外堀の周りから
千貫櫓、乾櫓、一番櫓、六番櫓
を望み、正面口の大手の土橋を渡り日本最大の
大手枡形門
より二の丸に入る。そして西の丸庭園に向い日本で唯一残る
焔硝蔵
(火薬庫)を見る。二の丸からは土橋を渡り、
桜門
から本丸へ入る。桜門では蛸石、振袖石などの巨石によって枡形が構えている。本丸では全国唯一の
金蔵
、小天守が残る
井戸屋形
があり、さらに本丸東側で、日本最大の高石垣を見る。本丸の北側では巨石を用いた天守台があり、現在は1931年(昭和6)に建てられた復興天守がそびえている。城内各所にある巨石を使用した石垣も見逃せない。
現在見られる大阪城の遺構は、すべて徳川時代のものである。しかし、大阪の人々は大阪城は「太閤はんのお城」と呼ぶ。徳川家康によって滅亡に追い込まれた豊臣氏に対する憐憫の情なのであろう。徳川によって地下に埋められた秀吉の大阪城だが、秀吉の遺構がいくつかある。秀吉時代の三の丸石垣が見つかっている。
大阪城は本丸を二の丸、三の丸を囲む
輪郭式
の巨大な
平城
で、築城技術の完成期に造営された。現在の天守は外観復元の五階、内部はコンクリート造りの八階、四層目までの壁は白漆喰仕上げ、最上階の壁は金箔で虎、鶴の絵が描かれ、豊臣時代の天守を再現している。屋根は銅瓦葺き、軒先の丸瓦、平瓦は金箔瓦である。金箔の絵、青味を帯びた緑色の屋根と軒先瓦の金箔の対比が典雅で美しい。特に石垣を積み上げる技術は最高に達し、堀と城壁の石垣は規模が大きい。石材は京都の加茂、兵庫県の六甲、瀬戸内海の島々から運ばれ、良質の花崗岩である。
本丸内堀、二の丸の南面と西面の石垣は20㍍もの高さを誇り、屏風のように折れ曲がる屏風折りという横矢掛けや、向かい合わせに突出部を設けた合横矢など、防御の技巧が凝らされた石垣が続く。打込接(うちこみはぎ)という工法で積み上げ、角は強度を確保した算木積(さんきつみ)である。
ガイドブックより
形の全景
大手門枡形の全景
左側から千貫櫓、多聞櫓、大手高麗門
使った江戸城の正門
麗門と櫓門からなる日本最大の内枡形門で
永
大手門枡形の高麗門
大手門は高麗門と櫓門からなる日本最大の内枡形門で
1848年(嘉永1)に再建された重要文化財である。
1
①大手門
②大手門枡形の高麗門と多聞櫓
千貫櫓
大手の土橋に対して左側に突出して側面攻撃を効かしているのが
千貫櫓である。織田信長が大阪にあった石山本願寺を攻めたとき、
この場所の櫓を攻略できた武者は銭千貫に値すると言った
伝承からこの名がついたという。この石垣は城内有数の高さを誇る。
西の丸の入口になる門
西の丸庭園
西の丸公園にある大阪迎賓館。現在は公園の休憩所として利用されている。
西の丸公園からみた内濠(空濠)
西の丸内から見た乾櫓
③焔硝蔵(えんしょうくら)
全国唯一残る城郭の焔硝蔵。石造りの蔵で、壁厚さは約
2.4㍍に及ぶ。外壁、内壁を石積みとし、その間には礫(小石)が
つめられている。1685年(貞享2)に造営された重要文化財。
焔硝蔵の内部
隙
西の丸から見た高麗門(常時閉じられている)
隙
西の丸から見た天守は雄大である。
隙
本丸東面の高石垣
本丸東面の石垣は大阪城のなかで最大の高さを誇り、
水濠の水面から高さ24mを測る。この石垣には三重櫓が連なっていた。
その勇姿は幕末に撮影された写真が残されている。
隙
二の丸南面の水堀
二の丸南面は上町台地に続く正面となるため、特に防御する
強固なものとしなければならなかった。このため幅39間(約70m)
に及ぶ広さの水堀を600mにわたって構えている。
手前の櫓は六番櫓 (撮影スポット)
隙
④六番櫓
城外側2面に張出型の石落が構えられる二重櫓で、1628年(寛永5)に
建造された。初重が8×7間で、大坂城では中クラス規模の櫓。重要文化財
隙
南仕切門跡
二の丸の西と南の区域は石垣によって仕切られ、
右側の石垣に二重櫓の太鼓櫓があったが明治元年に焼失した。
二の丸通りから左側の桜門に入ると本丸に通ずる
二の丸にある修道館
西側から桜門を見る(空堀)
東側から見た空濠
⑤豊国神社
徳川期大阪城の二の丸大番衆小屋跡に建つ。
豊臣秀吉を祭神とする神社で、1961年に中之島より現在地に移転した。
⑥一番櫓
城内側から見た一番櫓
⑥一番櫓
城外一面に張出型の石落しが構えられた二重櫓で1668年に建造。
初重7×6間 重要文化財 (南外濠からみた一番櫓)
⑧桜門
本丸正面の門を桜門と呼び、現在の門は
1887年(明治20)に陸軍によって建てられた。
(重要文化財)
桜門の正面に天守が望める
本丸桜門枡形の高麗門
振り袖石
本丸桜門枡形の左手側に城内3位の巨石がある。
その形状が着物の振り袖に似ていることからこの名が付いた。
蛸石
本丸桜門枡形正面の巨石は畳36枚敷あり、大阪城城内中最大の石。
石材左側に蛸の頭のようなシミが
あることからこの名が付いた。
桜門枡形の石垣
桜門枡形にも多聞櫓があったが焼失した。
旧第四師団司令部で
天守復興と同じ昭和6年に建造された。
ヨーロッパ城郭風のデザインの陸軍の建物であった。
⑨金蔵
全国で唯一残る城郭の金蔵。床下は厚い石敷で入口は
二重の土戸と鉄格子の三重構造、窓も土戸と鉄格子となっている。
1837年(天保8)に改修された。重要文化財
豊臣時代の大阪城天守は、地上七階、地下二階建ての
望楼型天守
で、安土城とほぼ同大、関ヶ原の戦い以前において最大の天守であった黒漆喰の外壁に、金色に輝く巨大な様々の紋様などがあしらわれ、絢爛豪華な天守であり、豊臣政権の象徴であった。
徳川大阪城天守は、地上五階、半地下一階建ての
層塔型天守
で、五階とはいえ各階が著しく高いため豊臣期天守の七階よりはるかに高い。また、千鳥破風を重ごとに数を変えて配置し、最上重の屋根を銅瓦葺とするなど華やかな外観を備えていた。下の穴蔵は半地下式とし、外壁面には明かり探りの窓を設けていた。
豊臣秀吉が勢力を傾けて築いた漆黒の巨城・大阪城(豊臣期)は、1615年(元和1)の夏の陣によって焼失した。江戸時代はその焼け跡に新たな城を再建することを決め、1620年(元和6)から大名たちを動員した天下普請によって築城が開始された。足がけ10年を費やし、すべての面で豊臣期の大阪城を上回った大城郭が完成した。
望楼型から層塔型へ
徳川大阪城天守が築造された元和・寛永期は、天守の築造技術が最高水準に達していた時期である。
豊臣時代の望楼型天守は、入母屋造りの建物を基部として、その上部に物見(望楼)の階を載せる形式をとり、梁組が複雑になるため築造が非常に難しかった。しかし、石垣(天守台)の築造技術の向上に伴い、層塔型天守(太い柱と梁を巡に整然とくみ上げるため明快な構造形式をもつ)が開発されたことで築城に時間や手間がかかる望楼型天守の欠点が改善され、豊臣時代に比べてより高く天守を築くことが可能となった。 このように江戸時代の威信をかけて築造された天守であったが、非常に短命であった。1660年(万治3)大阪城の青屋口火薬庫が畜雷によって爆発しているが、その余波を受けた天守も甚大な被害にあった。さらに1665年(寛文5)には、天守自身が畜雷に見舞われて全焼し、約40年間の命を終えている。
畜雷による天守喪失後は、残された天守台の周囲には土塀が巡らされ、江戸幕府の時代に天守が再建されることになった。天守を必要としない泰平の世の中で訪れたということかもしれない。
それまで天守の主流であった望楼型天守は、基礎の入母屋造りの屋根が巨大で、その階が屋根裏階となるため武者走がなかったが、層塔型天守の開発により、すべての階に武者階を巡らすことが可能となり防御上守りやすくなった。また、屋根裏階がなくなったため、外観の屋根の重数と建物内部の階数が一致し、すっきりとした外観となった。
建材の天守は1931年(昭和6)に建設、外観復元で内部は鉄筋コンクリート八階建て、高さは54.8mで「大阪夏の陣図屏風」を参考に、豊臣時代の天守を再現した、最上階の黒壁と金箔の伏虎と鶴が最大の特徴である。天守台は徳川時代のものである。
(ガイドブックより)
⑪大阪城天守
現在の天守は、徳川期の大阪城天守台の上に豊臣期大阪城をまねて
1931年に建設された復興天守である。どちらの天守も多くの点で異なるが
現在登録有形文化財に指定され、後年、戦災により焼失した天守を
鉄筋コンクリート造で再建する動きが起こるが、その先駆けといえる。
南側からみた天守
「浪人たち大阪の陣」と題して特別展が開かれていた。
小天守台
天守の南面から手前に突き出ている石垣が小天守台。
天守そのものが建てられなかったが、小天守台は完成している。
小天守のみ築くことは江戸城でも行われた。
天守台石垣の上部と隅部
上端には的を銃撃するための狭間と隅部に組まれた
算木積(さんぎづみ)の石は巨大である。
算木積とは、石垣の角などに用いる積み方で、石材を各辺に対して
整然と積む方法なので見た目は美しいのでよく用いられた。
月見橋
北側の山里口枡形丸から見た天守
月見橋
姫門跡
山里丸から本丸へ入る枡形門跡、東は山里口枡形門跡、南は本丸、
西は埋門で隠し曲輪へ通じる。本丸から撮影した姫門跡。
隠し曲輪
大阪城の本丸に唯一築かれた帯曲輪で、江戸時代幕府によって再築された。
出入口が狭くて気づかれにくく、兵士を隠す場所であった。
隠し曲輪・丹波小出氏
隠し曲輪内にある石垣には園部藩・小出吉親の家紋に
由来する「二八」の刻印がある。(赤丸の部分)
また、近くには大洲藩・加藤泰興の刻印が並ぶ。
豊臣秀頼、淀殿自刃の地碑
大阪夏の陣で、
秀頼、淀殿が自刃したのは、山里曲輪と
伝えられている。
このため徳川期大阪城ではあるが、現在の
山里曲輪に母子の供養塔が建てられている。
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天守入口。この日は日曜日で混雑していた。
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⑩金明水井戸屋形
小天守台に設けられた金明水の井戸屋形は1626年(寛永3)に
建てられた。全国で唯一残る城郭の井戸屋形。秀吉が井戸に黄金を
沈めたという逸話から、この井戸の水は「黄金水」とも呼ばれた。
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邪気払い、魔除けの意味がある桃の瓦
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天守入口にある号砲
戊辰戦争の時、薩長軍に備えて設置された。
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天守最上階からの展望①
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天守最上階からの展望② 大阪城ホール(ドーム型)が見える
天守最上階からの展望
② 正面には極楽橋
が見える。
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天守最上階からの展望③ 豊国神社境内が見える
青屋門
この門は徳川家による大阪城築城時に建てられたが、
明治維新で被爆。その後、修復されたが太平洋戦争により大破し、
現在の門は昭和44年に残存する建材で復元した。
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極楽橋と北側天守
天守北側の内濠に架かる極楽橋は、1965年(昭和40)
に再建された。二の丸と山里曲輪を結び、かっては山里丸が
構えられていた。現在は絶好の撮影ポイントになっている。
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⑭伏見櫓台
二の丸方面に構えられた伏見櫓は二の丸で唯一の三重櫓で、
初重9×8間という大阪城中最大の櫓であった。櫓台は二の丸石垣
塁腺から突出して構えられている。1945年空襲で焼失
⑬
北仕切り門(常時閉められている)
西の丸に通ずる門でもある。
内濠の西側から見た天守
本丸西濠と天守を見ながら京橋口に向かう
若者が内堀で魚釣りをしている様子。
外人のアベックがお城をバックにスマートフォンで撮りあって・・・・・
京橋口の石垣
石垣上には多聞櫓があったが太平洋戦争で焼失した。
肥後石
京橋口枡形正面の巨石城内第2位の巨石である。
肥後の加藤清正が運んだ石としてこの名がある。
実は備前の池田忠雄によって切り出されたものである。
京橋口門跡
で正面に見える肥後石
桜
と
乾櫓
1620年(元和6)小堀遠州の設計で造営された城内最古建造物
平面がL字形なので「折曲櫓」とも呼ばれ、
上層と下層が同じ大きさなので「重箱櫓」とも呼ばれている
桜と
玉造口門跡
玉造口は二の丸南東隅に構えられた虎口で、高麗門と櫓門からなる内枡形門。
櫓門は1868年(慶応4)に焼失。高麗門も1945年(昭和40)に空爆で焼失。
石をくり抜いた笠石銃眼が残る。
文筆は一部「大阪城」ガイドブックや
パンフレットなどから参照させていただきました
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