越前大野城の現存する天守は鉄筋コンクリート造りで昭和43年に再建された。往時の絵図や創建同時期のその他の城の天守を元にしたという。大野市のほぼ中央に位置する亀山(標高249m)に建ち、眺望がとても良い城として知られている。そして、主に10月から4月の間で一定の気象条件のもと城下町が雲海に包まれる。標高はそう高くないが街がすっぽり雲海におおわれるので「天空の城」として知られるようになった。とかく、竹田城がメディアに取り上げられ予期せぬ観光地になったことで、大野市でも第2の「天空の城」として有志による「ラビュタの会」が結成され全国発信している。JRの越前大野駅より歩いて25分という立地が手頃に訪れることができる。
私は紅葉の大野城に訪れ、好天むに恵まれ、丁度、大野の特産「そば打ち」が開催中で人出が多くあった。柳廼神社の南登り口から20分坂道を登り天守に到着。天守の最上階から大野市街が一望できた。
大野城の概要
越前大野城は天正4年(1576)織田信長より大野郡の3分の2を与えられた金森長近により4年の歳月を掛けて築城された。当初、朝倉氏の居城であった戌山(いぬやま)城に入ったが地形が複雑で標高の高い山城であったため、長近が戌山城の東1Kmの大野盆地に独立してそびえる亀山に新城を築いた。これが越前大野城の始まりである。この城が亀山を利用して築かれた梯郭式の平山城である。亀山の山頂を削り平坦にして本丸をつくり、その東側に二の丸、三の丸など造り、南・北・東の三方には人工の外堀を巡らし、東側の端には今も人工の外堀である百間堀の一部が残されている。西方には赤根川が流れ、各所に沼池があり天然の堀として城の守りを固めた。城の石垣は、戌山城の城石を運んだという伝承が残っている。また、城の東麓には、大野が北陸の小京都と呼ばれる所以となる碁盤目状の城下町を造り南北に6筋、東西に6筋の街並みを完成させた。
越前大野城の沿革
1575年(天正3年)金森長近は織田信長より大野郡の3分の2の領地(3万石)を与えられる。
1576年(天正4年)には長近が大野城の普請と城下町の建設を始める。
1580年(天正8)大野城が完成。
1775年(安永4)
野口村(現在の市役所近く)から出火。城下1400戸を焼く大火となり、大野城にも飛び火して 天守閣など焼失。
1795年(寛永7)天守を除いて再建。
1873年(明治6) 明治新政府発布の廃城令により残された建造物も取り壊される。
1968年(昭和43) 元士族の萩原貞氏の寄付金により、絵図を元に鉄筋コンクリート構造によって再建。(ただし、小天守が天狗の間の位置に建てられてることなど史実に基づいた再建でない)
越前大野城ガイドブックより |