所在地 岡山県岡山市丸の内2-3-1 別名 鳥城(うじょう)、金鳥城 種類 梯郭式・平山城
天守 望楼式・複合式・五重六階
鉄筋コンクリート造り(外観復元)
築城 慶長2年(1597)宇喜多秀家
主な城主 宇喜多秀家 、小早川秀秋、池田忠雄
主な遺構 (国重文)月見櫓、西手櫓
(復元)天守、不明門
(あかずのもん
)、廊下門、
特徴・見所
○珍しい不等辺五角形
○:現存遺構をしっかりチェック
○
様々な石垣でその時代の歴史が分かる
岡山城周辺マップ
城内マップ
岡山城の二ノ丸以外は市街地となり、本丸が公園として整備・保存されている。まず本丸の南西隅に架けられた
目安橋
で内堀を渡り、本丸に入る。渡ったところが本丸大手口にあたる
内下馬門の枡形跡
である。門の跡をぐるっと廻って本丸下の段に入り、
鉄門跡
へと上がる。すぐ右に見えるのが復元された
不明門(あかずのもん)
で、この櫓門は本段の正門であったにもかかわらず、昼夜ともに扉が閉ざされたところからこの名が付けられた。不明門をくぐると本丸本段で、ここが岡山城の中枢部。どっしりしとそびえる天守をたっぷりと見学した跡は、中の段に戻り既存遺構である優雅な姿の
月見櫓
を見ながら
廊下門
をくぐって旭川べりを歩き本丸下の段へと戻る。
岡山城の歴史
「安土城に建築ありし制に擬して天守閣を設く。その制三重造にて五重・・・」と古い記録ににあるように、この岡山城は、本格的な城づくりのスタートとされる織田信長の築いた安土城にならって造られた日本を代表する城郭建築で城の研究には避けて通れない貴重な城である。
いつも豊かな清水をたたえて流れる旭川、日本三大名園のひとつ「
後楽園
」を背景にしたこの城は、天守閣の基壇(天守台)が北に大きく突き出た
不等辺五角形
という。全国に全く例のない珍しい形をしており、また、塩蔵を併設した複合の天守閣である。
今の岡山城を築いたのは、宇喜多直家の実子、秀家で下、豊臣吉の子となって「秀」の一字をもらった人物である。秀吉が天下を握ると、秀家は父の遺領である備前・美作のほかに備中の一部をもらい、57万石4000石の大大名となった。こうなると、今の石山の小さな城では満足できず、秀吉のアドバイスに従い、現在天守閣の立つ場所「岡山」という名の小さな丘の上に、新しく旭川の流れをつけかえて、掘
削した土砂を盛り上げ、上中下三段の地形を造成した。そして、天正18年(1590)から本格的な城づくりを開始、途中、秀吉の朝鮮半島への侵攻には、総大将として出陣したが、帰ってくるとすぐに工事を継続し、ついに慶長2年(1597)の天守閣を完成させた。実に起工以来8年に及ぶ大事業であった。
新しく出来上がった本丸は現在も殆ど昔のまま残っている部分で面積が約4万㎡あった。秀家の築いた天守閣は、石垣からの高さが20.45m、二階建ての建物を大中小の三つに重ねた三層六階の構造であり、外壁の下見板には黒塗が塗られていたので、太陽光に照らされるとあたかも烏(からす)の濡れ羽色によく似ていため
「鳥城(うじょう)
」の別名がある。壁が黒いのは、戦国時代の名残である。
宇喜多秀家は、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いに西軍の総大将となって出陣、一敗地に塗れて八丈島へ流された。その後、小早川秀秋が筑前の国・名島から移って岡山城城主となったが在城わずか2年余りで急死、後継者がいなかったのでこの家は断絶した。その後姫路城城主池田輝政の子、池田忠継に備前い一国を与えられ岡山城に入り、以後池田氏31万5千石の時代が続いた。
(岡山城パンフレットより)
①目安橋(内下馬橋)
もともとは木製の橋が架けられていたが、現在は土橋に変わっており、
内掘を渡る橋で、渡った正面には内下馬門枡形が控えていた。
②内下馬門枡形の巨石
関ヶ原合戦直後に池田氏が、正門の大手口に城の威嚇や
大名の権力を提示するため巨石を組み込んだと言われている。
本丸下の段から本丸中段に至る階段
本丸下の段から見た不明門(あかずのもん)
本段御殿への正門本段への登り口にある大型櫓門
④不明門(あかずのもん)
本段御殿への正門本段への登り口にある大型櫓門
で
昭和41年に天守とともに再建された。
④不明門(あかずのもん)の正面
本丸中段の不明門は儀式のとき以外に開かれることはなくこの名
が付いた。主柱の正面の太さが約80cmmもある立派な門で
上階は木柱や長押しを見せ、板葺きの出格子をつけた古式な姿であった。
現在の石垣のほとんどは、昔のままの状態で保存されて
いるのは全国的に珍しく、特に天守閣を中心に広く取り巻く
石積みが自然石を用いた「野面積」であること。
隙
天守閣の礎石
天守閣は昭和20年6月の戦災で焼失し、昭和41年に元位置に鉄筋
コンクリートで再建されたため、礎石のみをここに移し、元の通りに配置している
隙
⑤要害門(六十一雁木上門)
本段から川手に通じ石段道の上にある門
隙
川手側から見た要害門(六十一雁木上門)
由来は段が61段あることから呼ばれた。本来は高麗門であったが
1996年に簡素な薬医門形式の木造で復元された。
⑥本丸本段から見た天守
秀家の築いた天守閣は、石垣からの高さが20.45mの
二階建を大中小の三つを重ねた三層六階の構造である。
一見ひとつの建物に見えるが、手前の白い建物が「塩蔵」という櫓を持つ
複合式
である。
「豊臣にふさわしい立派な城にせよ」との命を受けたせいか
瓦には金泊が施されていたため「
金鳥城
」とも呼ばれた。
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岡山城の天守は「何層何階」というのが一見わかりづらい複雑な構造をしている。
外観上の大きな特徴は、南北と東西が極端に異なること。そして、一階と最上階の
面積が大きく異なる点である。南北方向から見ると西側に塩蔵が付属していることも
あって左右に大きく広がりを持ち、安定していて優雅な姿をしている。
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この石垣は自然石をそのまま積み上げたもの。石垣の高さ19.4m
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後楽園側から見た天守閣
宇喜多期の石垣
天守台の石垣で宇喜多秀家が築いたので余り加工していない
自然石を積んでいる。石垣の勾配の角度がゆるく隅が鈍角である。
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天守閣の入り口
城下町の再現
城主の間を再現
金の鯱
最上階
6t
宇喜多家の紋章
石段を下りた先から天守・塩蔵を眺めてみる。南側の櫓門は不明門
だったので、普段はここの道を通って上段へ上がっていたんであろう。
石垣は、かなり丸い石をそのまま積み上げた「野面積」である。
石才が丸いからか緩やかなカーブを描いているので違和感は感じない。
⑦月見櫓
本丸内で戦火を免れた唯一の建物(重文)。この櫓は文字通り「月見」
という風流を楽しむために用いるようだが、本来の目的は、この中段の北西を
防御するためのもので、櫓自体も武器の貯蔵庫になっており、
隠し銃眼(鉄砲を撃つための狭間)や石落としの装置なども設けられている。
表塀土台石には全国的に珍しい当時の最新式の銃眼石
(石狭間、狭間石ともいう)を並べている。
穴蔵
幅3.8m、奥行き2.9m深さ2.3mの非常用の食糧を保存するのに使われた。
廊下門
表書院(中段)から本段(上段)に渡した長い廊下の下手に
設けられた門で、
昭和41年に鉄筋コンクリートで再建された。
月見櫓を支えている石垣は野面積と違って
、石の周囲を平らに
加工した割石を用いた積石で、「打込ハギ」という工法である。
扇の勾配といわれるように「石垣のカーブ」の美しさが特徴。
月見橋
月見橋上から眺めた岡山城
月見橋
天守閣と旭川
北より旭川超しに天守を望む。戦国時代末、宇喜多秀家が
旭川の流れを変えて、城の東を守る堀としての役目をもたせた
ため、川は城を囲むように半円形に流れることとなったという。
月見橋
月見橋は後楽園に通じる橋である
後楽園
日本三名園のひとつで、かって藩主の静養の場、賓客接待の場として
使われていたが、日を定めて藩内の人々にも鑑賞を許されていた。
江戸時代の絵図に基づいて復旧を行い、昭和27年に「特別名勝」指定された。
花葉池の大立石
元禄時代初期に巨石を九十数個に割って運び、元の形にくみ上げた石である
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能舞台
能に熱心であった池田綱政は優れた舞手であり、
能装束の名品を数多く残している。
延養亭
藩主が後楽園に訪れたときに居間として使われた。
園内外の景観が一望できる。後楽園の中心的建物である。
中の島付近から眺めた天守閣
後楽園のどこの位置からも天守が見渡せる
唯心山と天守閣
園内を見渡せる築山でツツジが咲く頃は絶景となる
「沢の池」に泳ぐ鯉
桜と
桜と竹林のコントラストが良い
文筆は一部「岡山城」ガイドブックや
パンフレットなどから参照させていただきました
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