今回はバスツアーで野麦峠トレッキングに出かけた。今日の天気は晴のち曇り、自宅を6時30分に出て25名の中型バス(25人乗り)に乗り一路、高山経由で野麦峠(標高1672m)に到着。野麦峠のお助け小屋で蕎麦定食を食べた後に近辺を散策。映画「あゝ野麦峠」で有名になった峠には展示館「野麦峠の館」もあり、過酷な労働で身体を壊した工女「おみね」の息を引き取ったおみねの像、お助け小屋などいろいろ歴史を刻む碑などがある。そして、午後1時ごろ、長野県側(県境)の野麦峠入口から現地ガイドの案内人と一緒に、すべて下りコース(標高差390m)を2時間30分のトレッキングを楽しんだ。帰宅は午後9時であった。
○野麦峠物語
明治の後半、生糸は日本の輸出額3分の1を支えていた。現金収入の少ない飛騨のの農家では12歳そこそこの娘たちが野麦峠を越えて岡谷の製糸工場へ「糸引き」として働きに出かけた。2月末に飛騨を出て5泊6日で工場に着き、12月末に帰省するまで働き、朝5時から夜8時までの長時間、熱さ、湿気、さなぎの悪臭という大変な労働環境。そういう中で、女工「政井みね」は14歳ごろから毎年製糸工場へ出稼ぎに行き、3年後に「百円女工」(年収)と呼ばれる優等女工になる。当時の百円は驚くことに家が一軒建つほどの価値があったという。
○政井みねの生涯
明治15年岐阜県飛騨市河合町に生まれる。家族の生活費を助けるため14歳になった2月、100人以上の女工たちとともに信州岡谷へ出稼ぎに出かける。途中、通行の難所であった野麦峠で吹雪きの中、重い腹膜炎を患い自ら死期を悟り、危篤の知らせを受けて引き取りに来た兄はどうしても家に帰りたいと言うみねを背負い飛騨に向い、野麦峠にたどり着くと、うれしいそうに「ああ飛騨が見える、飛騨が見える」と言い残して短い生涯を閉じたのである。
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