○ 大広間を中心とした本丸御殿
 熊本城の本丸御殿が創建されたのは、加藤清正が城主であった時期にさかのぼる。清正は1588年(天正16)に佐々成政に代わって肥後の北半分を領主することになり、さらに関ヶ原の戦いの後、肥後の南半分が与えられ、54万石の大名となった。清正が本格的に熊本城を築城し始めたのは、その後の1601年(慶長6)からで、このとき天守や本丸御殿ができた。その後、1611年(慶長16)に清正は没し、後を継いだ三男忠広の時代の1632年(寛永9)に所領を没収され、その後に入国した細川忠利は熊本城を整備した。本丸御殿の中心は大広間で、その南に小広間があった。桃山時代から江戸時代初期に建てられた本格的な御殿の場合、中心は大広間と呼ばれる建物で、対面のための大広間と饗宴の場となる小広間が対になるのが普通である。
○よみがえった御殿
 現存の櫓が国の文化財に指定されたのは1933年(昭和8)であるが、天守をはじめ
城内の多くの櫓や本丸御殿は1877年広間の床下、石垣の間の地下通路に存在した。今回の復元においては、緊急時などに、大・小天守の東の広場まで消防車やトラックを通らせる必要から、奧に行くに従って登るようにスロープとして造ったことにより、地下通路内の玄関のところで大広間が十分な高さを取ることができず、玄関であることを示す板敷きの縁と、大広間に上がる階段数段を造って、その位置が玄関であったことを示している。
 

 
                        
                     大広間
 玄関口にあたる60畳の鶴之間、35畳の梅之間、28畳の櫻之間、24畳の桐之間が連なる大広間。鶴之間から各部屋を繋ぐ回廊は大広間縁椽ケ輪や敷板と呼ばれ、若松之間、昭君松之間、数寄屋へと続いており、見る人を圧倒する壮観な雰囲気が漂っている。

 


 

縁側
大広間の南面は壮大な縁で、広縁、落縁、濡縁から構成されている。



  縁側と中庭
 

 

                    昭君之間
 付書院を備え、正面床には中国の故事「王昭君」の物語を描いた障壁画を備える最高格式を設え、その存在については、徳川家時代を迎えながら豊臣秀吉の重臣であった加藤清正公の思いを忍ばせる諸説が残っている。格式の高い昭君之間は、漆塗りの折上げ各天井で、一つの各間が90cm四方で天井画にはいろいろな物語の絵が描かれている。


 三の滝

 
                        

 





   

 


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