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1601年土佐に入国した山内一豊は築城総奉行に百々安行を任命し、城の視察には影武者数人を同行させて工事を急いだ。浦戸城から石材を運び、周辺諸村からも木材を切り出し、瓦は職人とともに大阪から集められた。1611年に完成した拘置状だったが、1727年に城下の大火で追手門を除くほとんど建物が焼失した。現在の高知城は1753年に再建されたもので、現在15棟の建造物が国の重要文化財に指定されている。 追手門から天守を望む景観は、高知城で一番の人気スポットである。板垣退助像の横の階段を上がると目の前に三の丸の石垣が迫る。三の丸の石垣は2009年の修復により、高知城で一番美しい野面積(自然の石を加工せず積む方法)としてよみがえった。本丸御殿入口には四重六階の古風な望楼天守が大きく迫る。北に廊下門、東に東多聞櫓、西に西多聞櫓、黒鉄門南に本丸が立ち並ぶ。これだけの歴史的建造物が本丸に残るのは高知城の最大の特徴である。 |
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縦にした追手門を眺めたものが池に映っている。 |
山内一豊公の像
松山城主は徳川幕府になって土佐藩初代藩主
山内一豊が治めた。以来明治維新まで約300年間、
土佐藩は山内氏の時代が続いた。1996年9月20日
の命日に再建除幕式が行われた。本体はブロンズ鋳造
青銅色仕上げ、高さ4.32mである。 |
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追手門から眺めた天守閣
追手門前から天守閣を眺められるのは
高知城だけで撮影スポットにもなっている。 |
追手門
入母屋造二階建。本瓦葺きで棟の両端に魔
よけの鯱が載せてある。二階の入り口は東西
2ヶ所にあり、一階の内開き扉はケヤキ材で
筋金を張ってある。天守と追手門が揃って現存
する城は、日本で高知城、弘前城、丸亀城の
3つだけである。
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追手門の南西の矢狭間塀
追手門南面の枡形を造る直角に折れる矢狭間塀で、
石垣上に築造している。外壁は黒の下見張に1間おきに
大小の縦長長方形の 矢狭間を配置している。 |
板垣退助銅像
「板垣死すとも自由は死せじ」という名言を残した
板垣退助は自由民権運動の指導者として知られて
いる。板垣が右手を上げている姿は。大衆に向かって
自由と平等を呼びかけている。
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天守閣
外観からは四階建てに見えるが、内部は六階になつて
いる。階高は低く、階段の勾配は急である。外壁窓は
板戸の突き上げ式古風を残す。最上階には格天井と
両引きの黒漆扉つきの窓が四方にある。
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南海大地震にも耐えた石垣
近江の石垣造りの専門家、穴大衆たちによって、
ほとんどの石垣が山の自然石を使って「野ヅラ積み」
という方法で造られた。 |
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一豊の妻、千代の銅像
17歳の頃、一豊と結婚、そのとき持っていた10両の
大金を出して名馬を買わせ「馬添え」という儀式で
織田信長の目にとまって、一豊の出世のもとになった
有名な話がある。
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弾や矢に強く厳重に造られた鉄門の跡
追手門の2分の1ぐらいの大きさの二階造りの門で、
扉には鉄板が隙間なく打ち付けられていたので鉄門
と呼ばれていた。
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詰門(筋違いの門)
本丸と二の丸石垣の間を結ぶ渡り廊下になっている。
一階は鉤型の偽造通路と詰門に繋がり、本丸に向かう
敵を欺く建造物の仕掛けとなっている。門内に入って
きた敵が簡単に通り抜けないように筋違いにして敵の
侵入を防いだ。
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二の丸手前の階段付近から見た天守閣北面
ここを仕切ることで、本壇・本丸への
用意な侵入を防いでいる。
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こ地高知城天守と本丸御殿
天守は入母屋の屋根に望楼に載った形である。江戸時代中頃に再建されたものだが、
藩祖山内一豊への思慕によって古風な望楼形天守のスタイルになったといわれる。
御殿は入母屋根の本瓦葺きで、縦横等間隔で組まれた。千鳥破風の狐格子(木連格子)は
土佐漆喰仕上げである。貴重な本丸御殿の現存遺構を見られるのは、この高知城と
川越城のみである。
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天守閣は3層6階、内部はすべて昔のまま残されていて、
国の重要文化財のひとつに指定されている |
本丸を入ると すぐ段違いに廊下があり、天守に導いてくれる |
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本丸御殿(懐徳館)の内部
城主の対面所として建築されたもので、畳廊下仕切り板
の板戸は魚粱瀬杉の一枚板を使用している。正殿内部
の上段の間には床、違い棚、付け書院、帳台構が配置され、
格式の高い書院造りの様式が残されている。
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天守閣最上階
急な階段を上がり天守閣の最上階へ行くと、
回り縁になっており、素晴らしい眺望として
高知市街や周辺の山々を一望できます。
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天守閣に使用されている鬼瓦 |
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天守閣からみた三の丸と石垣 |
天守閣からの東多櫓、廊下門、詰門 |
文筆はガイドブックを参考にしました。 |
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