平家の邸宅「六波羅蜜寺」や清盛の別荘「若一神社」など、平家の活動拠点となった京都。その町並みを歩けば、当時の清盛・時子の一門の息吹きが感じられる。また、清盛が造栄した世界遺産の厳島神社は、清盛が若かりし頃、海賊退治のために頻繁に訪れた地。清盛は「海の平家」の守護神として厳島神社を造営。今も当時の面影が数多く残る。今年、NHK大河ドラマ「平清盛」が放映中。平安時代末期に源氏を破り平家全盛を築いた武将「平清盛」は平家の中心的存在の人物として有名です。今回は平清盛ゆかりの地、京都・広島を訪れました。

 

     清盛を中心にした人物相関図
 
          
平清盛像

 平忠盛の長男としい育てられた清盛は棟梁となり、武士としてはじめて公郷にのぼり、貴族政治の改革、厳島神社の修築などに力を注く゜。出家後は福原に居を構えるが、平家打倒の陰謀が発覚すると、後白河法皇を幽閉、安徳天皇の外祖父として権勢をふるう。だが反平家の動きが高まるようになり、平家は孤立していくことになる。             

 
  華麗な王朝文化が花開いた今日の都。しかし、平安時代末期、清盛の父、、忠盛の時代には朝廷内の対立や武士たちの台頭が激しい抗争を呼ぶ政治の舞台となっていた。六波羅はその中心人物となっていく清盛が館を構えたところ。清盛が太政大臣になるころには、重盛をはじめ平家一門が高位高官に就き、藤原氏から政権を完全に奪うことになる。この地に一門が多く住んでいたので六波羅政権とも呼ばれた。
 今日、平家在りし日の面影を残しているのが六波羅蜜寺。天暦5(951年)に創建されたこの寺には、開祖であるなど栄華を極めたころの平清盛座像が安置されており、国の重要文化財に指定されている。寺から一歩外に出れば閉静な通りや住宅街が広がる。その昔、本当にここが平家の軍勢が闊歩したのか・・・そう思わせるほど、のどかな庶民的な雰囲気がいつでもここには漂わせている。
 昨年12月、NHK大河ドラマ「平清盛」で主人公・清盛を演じる松山ケンイチが、京都・六波羅蜜寺を訪れている。寺に安置されている清盛座像や境内の供養塔と対面を果たした松山は、現地で「まず、ここに足を踏み入れた瞬間、清盛がいかに人々から大事にされていたかが分かりました。そして、清盛は悪役として描かれることが多いのですが、本当はそうじゃないんだということを僕たちがきっちり証明していかなければと言う思いを強くした」とコメントしている

 
                        

 


 


 
                        

 


 

平清盛坐像

経巻を手に平家一門の武運長久を祈願して
朱の中へ血を点じて写経する清盛
                     
                 
 
 平清盛が平安末期に建てられた別邸「西八条御所」そこに紀州熊野の若一王子の御霊を祀ったのが始まりといわれている。その後、平清盛が出世をしたことから海運の神として崇められている。境内には社を見守るように平清盛の石像が立ち、その存在感を放っている。

三の滝


若一神社境内

 
                        
若一神社の前にあるシンボルである楠木

樹齢800年を越す大樹で出世に感謝した清盛が
手植えしたもので、この神社の御神木となっている。

 
                        
神供水

古くから名水として知られた地下水。運がけのご利益つき。

 
                        
平清盛の石像

 
                        
御祭神の若一王子が祀られている

 
 1八坂神社に鬼が出た。                                 
 本殿から東へ行くと灯籠が一つある。「忠盛灯籠」と呼ばれる。この灯籠に清盛誕生の謎がある。永久年間の五月雨の頃、当時、北面の武士として白河法皇に仕えていた平忠盛は白河法皇が寵愛していた祇園女御のもとを訪ねる法皇のお伴としてこの近辺を歩いていた。すると法皇が暗りの中に鬼がいるのを発見したのです。おののいた法皇は忠盛に退治を命じます。冷静沈着な忠盛はあれは鬼などではないと察し、殺さずに生け捕りにしたほうがよいと考え、そして、その鬼を後から羽交い締めにしてみれば、なんと鬼どころか、ただの老人であった。老人は灯籠に火を灯そうとして、右手に油瓶、左手に松明を持って、雨よけに麦わらを広げて頭に被っており、それが遠目には鬼に見えたのだとか・・・。老人を鬼だと思い込んで退治を命じた法皇は、忠盛の思慮深い冷静な行動を賞賛し、ご褒美に寵愛していた祇園女御を忠盛に下さいました。ご褒美に可愛がっている女性をあげちゃうという発想も凄いですが、当時はそれなりによくあったそうです。                                       
2.清盛誕生の謎                                       
 祇園女御はその時、すでに法皇の子を身ごもっていたこと。妊婦を下腸するという現代では考えられないことだが、法皇は「生まれる子が女子なら私が育てる。男子なら忠盛が育てよ」と仰せられた。結局、生まれた子は男子。その子はのちの清盛なのです。忠盛は生まれた子を我が子のように育てますが、どうもこの赤子は夜泣きが激しい。それを聞いた法皇はこんな和歌を詠んだそうです。                      
「夜泣きすとただもりたてよ 末の代に清く盛ふる事もこそあれ」
この意味は「夜泣きをしても、忠盛よ、ただお守りをして養育してください。後になって清く盛える事もあります」 この和歌の「清く盛ふる」から「清盛」の名がついたのだとか・・・
ちなみにその当時、祇園女御はすでに40歳代だったことから、清盛の母は彼女でなく、同じく法皇の寵愛をうけていた祇園女御の妹でないかという説もある。実母がはっきりしない上に、父親の忠盛と血縁がないという逸話。清盛の誕生の謎が多い。       
3.清盛と八坂神社のもう一つの関わり                            
 久安3年清盛が30歳のとき、祇園祭の夜に清盛は宿願の成就を祈り、田楽を奉納しょうとします。平氏の郎党が護衛として同行したのですが、八坂神社の神人に武器の携帯を咎められたことでひと悶着が起って、矢が宝殿に突き刺さり多数の負傷者が出る騒動になったのです。これに八坂神社の本山である延暦寺が怒り、忠盛と清盛の配流を求めて強訴。結局、鳥羽法皇は清盛を「贖銅三十斤」の罰金刑にします。この罰金刑は衆祖にとって不満がつのり内紛が発生、法皇は延暦寺の不満を抑えるため、八坂神社で「法華八講」を催し、忠盛も延暦寺との関係修復を図って自領を寄進します。そして、鳥羽法皇の庇護により配流を免れた清盛は、今後ますます力をつけていきます。鳥羽法皇や白河法皇が延暦寺の強訴を退けたことで武力の有効性、しいては武士の重要性を高める政治を執り行うようになり、貴族社会から武家社会への変換の橋渡しをする結果を生んでいくことになります。

 

八坂神社の西楼門

三の滝
本殿・舞殿

む 
                        
境内にある「平忠盛の灯篭」


 
                        
長楽寺の参道

 
                        
長楽寺の山門

清盛の娘でもあり、高倉天皇の正室で
あった建礼門院が出家したお寺


 
                        
清盛の出生を握る母。祇園女園の供養等

 
 「平家物語」の悲恋の尼寺として知られる。平清盛が愛した祇王、祇女が過ごした場所であり、竹、樹木、苔にかこまれ四季折々の表情みせてくれる。庵内には祇王、祇女の木像が安置されている。2人の墓所といわれる宝印塔や清盛の五輪の供養塔もある。  

 
                        

 


 


 
 
 日本三景の一つであり、1996年に清盛が造栄した世界遺産に登録された厳島神社。まるで海の中に浮かんでいるように見える朱塗りの社殿。そして、宮島のシンボルになっている大鳥居、壮麗な姿が見る人の心を惹きつけます。清盛がこだわり抜いた美しさは、現代においても色あせることはありません。 神社は推古元年に市杵島姫命の神託により豪族の佐伯鞍職が創建し、初代神主となった。長寛2年、清盛47歳のとき、平家一門がその繁栄を願い、厳島神社に経典を奉納します。これが「平家納経」と呼ばれ、清盛、重盛、頼盛、教盛などがそれぞれ1巻を分担する形で筆写し奉納された。この「平家納経」は施された装飾が豪華絢爛で、平家の栄華を今も伝えています。法華経30巻、阿弥陀経1巻、般若心経1巻、平清盛自筆の願文1巻すべて国宝に指定されている。

 


 
                        

 
                        

 

 
三の滝

 
三の滝

 
三の滝
清盛神社

昭和29年に清盛の没後770年を記念して創建された「清盛神社」
毎年、清盛の命日である3月20日に「清盛神社祭」が行われる

 
三の滝

 

多太神社の参道に建つ松尾芭蕉像

 


 
  
 
 音戸の瀬戸は呉市にある瀬戸内航路の難所で、その重要性から切り開いたと言われている。音戸の瀬戸公園の高鳥台には、音戸の瀬戸の開削当時、完成まであと一歩と迫ったところで陽が西に傾いたが、、そのとき清盛は右手に金扇をかざし、「返せ、戻せ!!」と叫んで夕日を招き寄せて一日で工事を終えたという伝説にちなんで、夕日に向かって扇を差し出した清盛の「日招像」が立っている。一門の繁栄を育んだ瀬戸内だが、その最後もこの海の波間に沈んでゆくのは皮肉である。

 

本州と倉橋島の間にある音戸の瀬戸海峡は日宋貿易のため
1167年に清盛が開削した。JR「呉」駅から徒歩5分の暮れ中央桟橋と
音戸漁港を結ぶ連絡船

 

ロケセットを多数展示でリアルな展示内容
ドラマのシーンが鮮やかによみがえるドラマ館

 

NHK大河ドラマのロケに使用された衣装

 

音戸の瀬戸ドラマ館内にある「清盛像」




 

ロケに使用された実物大の大型和船で全長15メートルある

 

清盛塚と音戸大橋

 

平清盛塚

 

平清盛日招像

平清盛の音戸の瀬戸の開削800年を記念して
建てられたのが「日招像」で瀬戸を見渡せる高台
で清盛が、日没の方向に向けて立っている清盛像

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