,小江戸川越は年間60万人が訪れる、都心から最も近い観光地のひとつ川越。縁があって友人(鶴ヶ島在住)の案内を頂いて主な喜多院、蔵の街、菓子屋横丁を散策しました。江戸時代に城下町として発展した歴史があることから「小江戸」の名称として親しまれている。明治の面影を今に留める「蔵の街」、大正モダンな建築物、そして昔懐かし駄菓子横丁など見所はさまざま、また、由緒ある神社、寺院などの歴史スポットも充実している。
 
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  喜多院は平安時代の創建と伝えらるが、寛永15年(1638年)の川越大火で、現存の山門以外すべてが焼失した。その後、江戸幕府の手により復興されたが、明治維新以降、再び荒廃、終戦後に50年近い歳月をかけて再建された。
質問1 喜多院にある「誕生の間」で生まれたとされる人は誰か。
 1.徳川家康 2.徳川秀忠  3.徳川家光 4.徳川綱吉

  正解 徳川家光
江戸時代初期、喜多院の27代を務めていた住職
 名僧天海大僧正が家康の時代から徳川の厚い信頼を得ていた。そこで川越大火に見舞われた際に3代将軍家光が司る幕府の庇護の下に再建が行われ、豪華な壁画、墨絵で装飾された「客殿」、江戸城から移築された三代将軍、徳川家光の「誕生の間」、徳川家光の乳母が使用していた書院と呼ばれる「春日局化粧の間」が移築された。江戸城ゆかりの建造物に加え、山門などが重要文化財に指定されている。多くの文化財を所蔵している喜多院は川越というより、埼玉県を代表する寺院として全国的にも有名である。
 

 

喜多院の山門(重要文化財)

 
                        
本堂

 

多宝堂

 

喜多院の客殿から眺めた中庭
 

 
                        

徳川家光公の手植えのしだれ桜

 
三の滝
五百羅漢は五百体の石仏がある

 

人間の喜怒哀楽を捉えた表情の石仏
 
 情緒あふれる蔵造りの町並みにひときわ高くそびえる川越のシンボル「時の鐘」は蔵造りの町並み「一番街」と同様に、城下の頃の面影を残す建造物で江戸時代初めから城下の街に時を告げ、庶民に親しまれた時計台である。
 今から約400年前、当時の川越藩主だった酒井忠勝によって創建されたと言われている。火災で何度も焼失し、現在の鐘楼は川越大火後、明治27年に再建された4代目、環境省主催の「残したい日本の音風景百選」にも選ばれている。
問題2 川越のシンボル「時の鐘」の高さに一番近いのはどれか。
  1.川崎の白衣観音  2.鎌倉大仏 3.善光寺の仁王様  4.奈良の大仏

正解 川越の町を見守る時の鐘は
奈良の大仏とほぼ同じ約16m。櫓は木造で三層となっており、鐘は最高層の部分にある。以前は鐘つき守りの手によって管理されていたが、現在は機械仕掛けとなている。小江戸の情緒を感じさせる鐘の音で時を伝える。現在は6時、12時、15時、18時の1日4回、音を響かせる。

 
三の

 
       





三の滝

 
                        
最階層にある時の鐘
                             
 
  大きな鬼瓦の屋根に黒しっくり壁と分厚い観音開きの扉・・・、。造りの趣豊かな町並みの「一番街」、同じように見えて一軒一軒違う造りを示しており、それぞれ個性を持ちながら堂々とした風格さえ漂わせている。

 

一番街は川越の目玉観光スポットである

 
                        
川越人力車で名所を知り尽くしている車夫のガイドも楽しい


 
                        
一番街にある川越郵便局のポスト



埼玉りそな銀行
大正7年に建てられた洋風建築


 

蔵造り資料館
明治時代の煙草卸商の住宅を使用した資料館


 

当時資料館には当時の建物の豪壮さを示す
意匠が施された鬼瓦が展示されている


 

鬼瓦が大きく重いため右側に添えて箱棟を取り付けている


 

蔵は展示室となっている

 

蔵に展示されている消火用ポンプ
明治時代まで使用された日本式と洋式のもの


 

二階窓の観音開き


 

大沢家住宅

寛政4年(1792)築、装飾の少ない簡素な姿が美しい
川越大火に耐えた国指定重要文化財
元は呉服商であったが現在は民芸品の販売店



   
 

 一番街やその近辺にあるマンホールの蓋

時の鐘などのイラストが描かれた川越のオリジナル


 
  駄菓子を前に胸をときめかせた昔を思い出す狭い横丁。25件の店が立ち並び、ふ菓子や飴玉など懐かしい味の数々がズラリ勢ぞろいする。素朴で昔懐かしい味を今に伝える菓子作りの店が立ち並び、一歩足を踏み入れと、誰もが子供にかえったような気分になてしまう。醤油の焼ける香ばしい香り、ニッキ、ハッカ飴、駄菓子やだんごなど昔ながら手法で作られる飴菓子、かるめ焼きなど思わず「あっこれ」と言ってしまう駄菓子の数々・・・・。百円玉を握りしめて、あれにしようかこれにしようかと頭をひねった幼い頃を思い出す大人も駄菓子をあまり知らない子供も世代を超えて、誰もがワクワクしてしまう場所である。「菓子屋横丁」は明治時代始めの頃、鈴木藤左衛門が養寿院の門前町として栄えるこの街で江戸っ子好みの気取らない菓子を製造したことが始まりといわれている。

問題3 川越の菓子屋敷横丁は、ある災害で被害を受けた地域に代わって大量の駄菓子製造と供給を行うようになった。その災害とはどれか。

1.関東大震災 2.東京大空襲 3.伊勢湾台風 4.浅間山噴火

正解 関東大震災
 菓子屋横丁は明治時代から存在していたが、大正12年の
関東大震災で被害を受けた東京の代わりに、大量の駄菓子製造と供給を行うようになった。
 昭和初期には70軒以上あつた店戦争や生活の変化などによって店舗数は激減したものの、人情味あふれる横丁の情緒、威勢の良い呼び込の声、素朴で懐かしい街角は時代が変わっても人々に安らぎを与えてくれるのが「菓子屋横丁」である。平成13年環境省の「かおり風景100選に選ばれている。ここで問題です。


 

狭い小路の菓子屋横丁


 


 

昔のお菓子食べてみない?


 

1m近い長さのある特大ふ菓子が大人気



 

懐かしいお菓子を各種販売の駄菓子屋


 

昔懐かし駄菓子があるな・・・・


 

今年10月20~21日行われる川越祭り


 

町内で祭りの準備する山ぐるま


 

川越まつりは国指定重要無形民族文化財