犬山城周辺マップ
 
  木曽川沿いにある高さ約40mの丘に築かれた平山城。織田信長の叔父織田信康が砦を城に改修し創建した。江戸時代には尾張藩の付家老である成瀬正成が入り、以来成瀬9代の居城となった。現存する国宝天守は慶長期(1596~1615)に建てられ、元和(1615~1625)期に改修された別名「白帝城」は、木曽川沿いの丘上の姿が長江流域の白帝城の姿に似ていると荻生徂徠(おぎゅうそらい)が命名したもの。
 現在城内には、三光稲穂神社のある松の丸、西の中御門付近より入城する。黒門跡前に至って左手に見える空堀は城内に残る数少ない堀跡である。黒門跡を過ぎると直線的な登城道が本丸へと伸びる。登城道の左右は二の丸となり、左手には樅の丸、右手には桐の丸、杉の丸が配置される。登りきった岩坂門と本丸鉄門の間は本来四角形枡形空間で、石垣と土塀に囲まれていた。石垣は残っている。犬山城といえば現存天守が最大の見どころであり、かっては櫓群が立ち並ぶ重厚な構えを見せていた本丸周辺をじっくり見ておきたい。現存するのは石垣、天守、空堀だけである。
 天守は昭和10年に国宝に指定され、現存天守のある12城の中の1つである。

 
三光稲穂神社(松の丸)
1669年(寛文9年)に本丸から移された松の丸御殿
城主成瀬氏の守護神として祀られている。

 
     
    朱の鳥居をくぐると犬山城への近道になる                   

 
針綱神社

二の丸は登城道を挟んで西に樅の丸、
東に桐の丸、杉の丸が配置された位置が
桐の丸跡に建つ針綱神社は廃城後にこの地に移された。


 

城の入口に大きな石に「国宝 犬山城」と書かれている記念碑
 

 
                        
登城道を歩くと本丸鉄門のある本丸入城にたどり着く

 
三の滝
黒門跡
黒門は桐の丸と樅の丸を抜ける登城道の入り口に道具櫓を
伴う形で構えられた。現在は門の礎石が残っているのみである。


 

岩坂門跡と小銃櫓台


 

本丸鉄門
本丸出入り口に設けられたおり、鉄板で覆われた
櫓門であったことから、鉄門と呼ばれた。


 
天守前の広場
三の

 
                 天守の正面
天守は三重四階、高さ約18m、一階は平面18×15mの規模。地下一階で、 二重入母屋屋根の上に望楼がある。その均等のとれた美しい姿から、復興  天守や模擬天守のモデルになっている。      



付櫓
天守東南部にある付櫓で天守から突き出ており、
天守入り口への側面攻撃が可能。


 
 望楼部は二重櫓の上に増築されたもので1620年に付設。唐破風を設けた
 ことで調和が生まれ、違和感を感じさせない。最上階は廻縁と高欄が巡る。   
  
                             

 
     奥の方に突き出ている部分が石落しの間  
           

  
  七曲門跡
本丸北東隅から七曲道を経て水の手御門に至る入り口に備えられた門。現在は礎石が残るのみである。周辺の旧状をよく残している
             

 
     穴蔵中段の踊り場と天守を支える石垣   
 一気に一階に上がるのはあまりに高くなるため、途中に踊り場を設けたことで侵入者に対する備えとなった。
            

 
   一階は上段の間、武者隠し、納戸2間に分けられ、
        それらを囲むように武者走が取り囲んでいる。       
                 

                         
付櫓の内部で三方に窓があり、右側の窓から天守入り口
が見え、殺到する敵に横矢を仕掛けることができる。

       
石落しの間内部
内部は板敷きで、窓は開き戸になっているため視界が大きく
開ける。ここから鉄砲などで周囲の敵を狙うしくみである。



一階上段の間
畳敷きで床の間、違い棚が設けられているが
城主の居所でなく、幕末頃に造られた装飾としての部屋である


 
三階の唐破風の内部

屋根裏階となるため、四面の破風内に入込みの間を設け、
そこに連続する窓を設けることで彩光している。


 

当時二階にある武者走
二階の武者走は、当初から身舎の周りに
設けられており、幅も2間幅と広い。


 

当時天守内部の規模や敵に対する防備もあって
天守の階段は勾配がきつい。   


 

2階には全国のお城写真や解体骨組模型が展示されている


 

天守模型
模型の骨組みを見ると同大の一・二階は
同大の三・四階が載った様子が伺える。


 
 絨毯敷きの四階は回縁があり、今日はよい天気で清々しく眺めは最高。オランダ商館長から入手したといわれ、天明から天保 (1781~1838) 年間に絨毯敷きとなったといわれる。貴重な絨毯敷きにしたのは城主が登るためである。高欄の間には歴代の城主と瀬家歴代の城主の肖像画が掲げられている。         
                     

 

天守から南面を望む


 
天守から北側を望む。
真ん中には伊木山、ライン大橋が見える


 

天守から望む
眼下に木曽川の流れ、そして、広大な濃尾平野が
一望できる。また、ツインブリッジ「犬山橋」が見える。


 
犬山城遠望 (犬山橋上から撮影)
木曽川に面した標高約88m丘陵上に位置する。
木曽川越しに眺める景観が最も素晴らしい。


 

うかいや日本ラインで知られる木曽川に舟が通る様子を撮影
木曽川

 

小山の高さ88mに聳え立つ犬山城

 
  織田有楽斎(1547-1621)は信長の実弟で茶の湯の創成期に尾張国が生んだ大茶匠であり、その生涯は波瀾に富んでいた。有楽は晩年、武家を棄て京都建仁寺の世伝院を隠棲の地とした。
 如庵はその境内に元和4年(1618)ごろ建てた茶室である。現存する国宝茶席三名席のひとつとして茶道史上貴重な遺構である。旧正伝院書院はは如庵に連なる隠居所であり重要文化財に指定されている。明治以降これらの遺構は各地を転々としたが、ようやく有楽の生まれ故郷に帰り、安住の地を犬山に得て、「有楽苑」と名づけ後世に残すことになった。

 

岩栖門
細川満元が建立したと伝わる門。
細川満元は室町時代の守護大名で
足利4代将軍義持を支えた武将。


 

含翠門


 
重要文化財の旧正伝院書院と如庵
旧正伝院書院は元和4年如庵に隣接して建てられた
有楽斎の隠居所で入母屋造り温和な外観を示し、
内部には長谷川等伯などの襖絵は美術史上貴重な資料がある。



 
如庵(国宝)
柿葺きの端正な外観を示す茶室。
内部には二畳半台目で床脇にウロコ板を入れ、斜めの壁を

作っているところから「筋違いの囲」と言われている。

 
元庵
有楽斎が大阪天満に構えた茶室を古図に基づいて復元。
三畳台目の茶室内部は奥に深い間取りで、
亭主床と呼ばれる床構えになっている。


 

障子戸から庭園を望む


 
 

 

 

有楽苑の四季 (資料より提供)