城内マップ
 今回は新潟港から乗船、船泊して秋田入港。弘前までバスで9時に到着、弘前さくらまつりを堪能しょうと弘前公園内にある弘前城を約90分間と短い時間であったが満喫するコースを廻った。
 江戸時代からの現存12箇所のうち東日本唯一の弘前城は国重要文化財である。美しい三重三階の天守が目を見張る弘前城は、隣接する南部氏から津軽地方を守るために築かれた居城である。もともと津軽地方は南部氏の所領であったが、戦国末期、南部氏の家臣であった津軽為信がその支配を嫌い独立、この地を手中に収め弘前藩を開いた。こうした経緯もあり、津軽氏と南部氏は犬猿仲となり、この影響を受けて築城された弘前城は4万7千石の政庁であった。 弘前城は、津軽統一を成し遂げた津軽為信によって、慶長8年に計画し子の2代信枚が完成した。総石垣の本丸をはじめ、二の丸などの中核部を水堀で囲み、また、岩木川などの流れを利用してほかの曲輪を配置した。
 城の構造は典型的な梯郭式縄張となつており、本丸、二の丸、三の丸など7つの曲輪、天守をはじめとする8つの櫓、12の城門を備え東西約625m、南北約950mに広がり、石垣は本丸のみでその他は土塁で築かれているが城の西に流れる岩木川、東の土淵川が防御の一旦を担っている。当初は本丸に五重の天守を備えていたが、寛永4年(1627)に落雷によって焼失、後に本丸東門の隅にあった三重櫓を改築し現在の天守が築かれた。
    弘前城の天守が"引っ越し"へ100年ぶりの石垣大修理で70メートル移動
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さくらまつりで露店、出店で賑わう園内

    

明治15年植栽の「日本一太いソメイヨシノ」



幹の太さ5.37メートル




丑寅櫓(
うしとらやぐら)とお堀




二の丸内に現存する3つのうちのひとつ丑寅櫓は、城郭に取り付く敵を
攻撃したり物見のために造られ、防弾や防火のための土蔵つくりである。




北の郭から望む本丸の天守と石垣




内濠に浮かぶさくら




北の郭からみた天守


 

内濠に架かる朱色の鷹丘橋

 



   園内の水濠には8つの橋が架けられている。その一つの鷹丘橋



石垣で固める本丸につながる坂

 




城は二の丸、三の丸ほか曲輪が、本丸を梯郭式に取り囲む縄張り式であった。
中心に位置する本丸は唯一の総石垣の曲輪で南側に土塀。幕末の1810年に幕府
の許可を得て、辰巳櫓を改築して天守代用の御三階櫓とした。御三階櫓は三重三階で
高さ約14.4m、一階平面11.8×9.8mと小振りである。弘前藩は幕府への配慮から
「御三階櫓」として幕府へ届け出し、事実上の天守としての役割を担う建物であったが、
天守と呼ばれたのは明治以降である。


 
本丸に咲くみごとな「弘前しだれ」




 

天守の最大の特徴は、内堀側の面(右側)と本丸側の面の
ビジュアルが全く違うということ。
内堀側の天守は
装飾のない窓のないデザインで、長方形の形は狭間。


 

         本丸側から見た天守は、採光のための銅板張りの窓がたくさんある。 


 

天守の入り口付近は土曜日で桜満開の時期だけに大混雑している
 
                             

 

天守の最上階から望むと津軽富士と称される
「岩木山」(標高1625m)がみえる絶景ポイント


  

天守の最上階から見た鷹丘橋

 

水堀に突き出すように建つ姿は独特の奥行感がある。

 
  
さくらのすき間から見る天守と朱塗りの下乗橋はコントラスの良い撮影ポイント。
       



二の丸から望む。内濠には天守と朱塗りの下乗橋が浮かぶ




長方形の型をした狭間。江戸中期に建てられた天守であり
戦闘仕様の必要がなく寒冷対策である。
徳川派なのか白漆喰壁、銅板張りの
屋根。江戸城オリジナル破風の青海波の模様まで江戸城に影響されている。



南内門の裏側全景
慶長15年(1610)に建てられ、枡形iに位置し所謂櫓門形式。
入母屋、本瓦葺き、のぞみ窓があり、2層目は鉄砲狭間や物見がある。
実践になると兵士が詰める場所にもなっている。


 
蓮池と西濠に挟まれた桜トンネル

 
桜トンネル付近の出入口の春陽橋
 

 
津軽氏にまつわる貴重な資料の展示


天守に上がろうとする敵を槍
や石をで堀に落とす役目
 

最上階のすき間窓からの眺めは絶景である


物見窓

文筆は一部「弘前城を歩く」ガイドブック、
パンフレットなどから参照させていただきました