関ヶ原の戦いの勝利で、徳川家康は西軍・石田三成の近江18万石を取り上げ、それを徳川四天王である井伊直政に与えた。直政は三成の居城・佐和山城を取り壊し、すぐに新しく城を築くことになる。築城は直政の死後、家督を継いだ直継により続けられ、1622年(元和8)、金亀山に彦根城が築かれた。
彦根城は豊臣大阪城に対する徳川氏の最前線を担うため、強固な防御構造の城として築城された。その構造は内堀、中堀、外堀からなる典型的な近世城郭で、外堀の大半は埋められてしまったが、内堀、中堀はほぼ現存している。中堀には出入り口として佐和口、京橋口、船町口があり、すべて枡形である。中堀の内側には重臣屋敷、長屋、下屋敷などが設けられていた。内堀を渡るには表門、大手門(正面)、山崎口、黒門、裏門の5ヶ所があり、大手門口は特に巨大な枡形となっている。
現在の一般ルートは佐和口を入り、表門より内堀内に入る。登城道を登りきると堀切となり、太鼓丸側には天秤櫓が配置されている。さらに進むと本丸に至るが、その正面には太鼓門櫓が外枡形となり、最後には本丸御殿の礎石が残り、北側には天守が建っている。私はこの一般ルート佐和口、表門に入り①から⑨の順路で廻り、最後に楽々園、玄宮園を探索した。
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