小松城の周辺マップ(番号は訪れた順序)
  小松城は加賀藩3代藩主の前田利常が家督を譲って隠居すると、加賀一向一揆の砦であった小松城を大幅に改修して居城とした城である。また、利常は茶の湯を愛した文化大名として知られている。利常によって改修された小松城は、本丸の天守台に数寄屋造の本丸櫓が建てられたほか、城内の葭島(よしじま)に御書院も造り、さらに裏千家の創始者である千仙叟召し使え、三の丸に屋敷を与えて侘び茶を広めた。また、城下に京都の北野天満宮の祭神菅原道真を祭り小松天満宮を創建した。前田氏が菅原道真の子孫を称していたからである。小松天満宮は、小松城の鬼門の北東の方向に位置しており、小松城を守護することとなった。  利常の隠居城として築かれた小松城は、1658年に利常が死去するとその役割を終え、利常は在城約20年であった。

   
             
  小松城の主であった利常は、桃山文化の伝承にも力を注いでいる。利常の夫人は徳川家康の孫。また、後水尾天皇の孫で、天皇と義兄弟の関係にあたり利常の周辺には京都で活躍していた日本文化史上でも有数の人物たちが集まった。当時の一流の芸術家と言える小堀遠州、千宗室らと交流を持ち、茶器の収集、茶の湯や庭園の設計について教示を仰いでいる。利常の正室は将軍秀忠の二女珠姫、利常と珠姫との間に生まれた富姫(四女)は、寛永19年(1642)後陽成天皇の弟宮八条宮智仁親王嗣子・智忠親王に嫁いでいる。智仁智忠親王は父子二代にわたって桂離宮の造営にあたっていたので、親王妃富姫の父である利常は幕藩時代に経済的に困窮していた親王の義父としてかなり高額の出資をしている。桂離宮の造営にあたって、利常は後世に残る最高のものを造りたいと考えたようで、桂離宮は17年の年月をかけて完成している。桂離宮は利常の存在なくしてはできなかったのである。  (こまつ・旅ナビより)

 
①芦城公園入口(三の丸跡)
左側は小松市公会堂、右側が市立博物館

 
    ①1652年ごろ三の丸は10軒の町屋敷があり、
1906年に芦城公園が建設された 
                     



①芦城公園内にある三の丸橋

 

①三の丸は城番などの侍屋敷であった。
廃藩後に芦城公園となり今日に至っている

 



   ①芦城公園
築山、あやめ池など造られ、桜の名所であり、
花見でにぎわい、市民の憩い場となっている。
                   




 
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②芦城公園内(三の丸跡)に前田利常像
高さ約3メートルの台座を設けている

 

③仙叟屋敷および玄庵
利常は裏千家の創始者、仙叟宗室を招き、三の丸に住まわせた。

裏千家の15代鵬雲斎汎叟千玄室に茶室を小松市に寄贈した

 
④本丸御殿跡
御殿の遺稿は残らないが柿葺、平屋建て建坪約1507㎡、御殿の
北側には隣接した広敷があり、利常や側室京極の方の居住屋敷
であった。今は小松高校のテニスコート、グラウンドになっている。


 
⑤天守台石垣東面
石材は隅石など構造部分に戸室石(安山岩)を配置し、
全体を観音下石や鵜川石(角礫凝灰岩)など使用して
隙間をなくす「切込ハギ」で美しく積み上げた。


  天守台の石垣は、築城技術がピークに達した時期に築かれただけに精巧に積まれ、直線的に加工した石材をブロック状に積み上げる「切込ハギ」と呼ばれる工法。この工法は石を削ってきれいに整形して積む方法。高くて急角度の石垣を築くことが出来、見た目も洗練されて美しい。一方で手間と費用が膨大となるため徳川将軍家とごく一部の大名しか採用できなかつたという。
 小松城の石垣の重要な部分には良質な金沢の戸室石を用い、その他の部分は小松産の鵜川石を使っている。赤、青、白っぽい石のコントラストがとても美しいこの石垣は、利常の美意識が反映されている。
                            (こまつ・旅ナビより掲載)

 
⑥天守台への登り口の石段
z天守台石段の北面に幅2.75mで22段の階段がある。
石材は小松市滝ヶ原産出の緑色凝灰岩である。



踏台は損傷していて登りにくい。訪れた時は天守台を喰いで
囲みがしてあり、登らないようにと注意書きの看板があった。

 
石垣の上面の中心付近に標高の基準となる二等辺三角点
「小松」があり、標高11m、櫓台の高さ7.5mである。
 
                             
 
天守台から小松市街を望む


  
前田利常の美意識が反映された美しい石垣
天守台は東西20m、南北18m、高さ6.3m、仰角82°の傾斜である

 

⑦天守台脇井戸跡
「利常公が白山権現より授かったもので
白山水という。千天(日照り)の時も減水することなし」
と「小松城本丸御殿絵図」の注記として書かれている。
 

 
  
⑧堀石垣
二の丸に近い東側の筋違門の堀石垣の高さは4.5m、御殿のある西側の
堀石垣の高さは5.5mであった。石材は小松産出の角礫凝灰岩である。  
       

 
⑨来生寺の寺門
  鰻橋門は小松城の二の丸門であったが明治5年(1872)小松城の
解体の際に、来生寺に移築され寺門となった。小松城の唯一の遺構で
貴重な門である。一見するに鰻橋門は長屋門であるようである。

 現存する鰻橋門は、二の丸から枇杷島へ鰻橋が築かり、二の丸鰻の番所として鰻橋門が設けられた。「小松城内分間絵図」に間口3間2尺の二口門、間口1畳の番所、間口2間奥行4間4尺の長屋門が描かれている。

 
⑩小松天満宮
  1657年、前田利常により創建された。祭神は学問の神として
知られている菅原道真である。社殿は重要文化材に指定されている。


 

 
現地掲示板
  小松城は、梯川の蛇行によって造られた沼地を利用して平城である。川の水を引き入れた堀の中に8つの島が兵法に従って配置されている。 利常は大修築を施し、本丸、二の丸を堀で囲み、その周囲に三の丸、枇杷島、中土居、芦島の四郭、さらに、その周囲に牧島、三の丸、竹島など六郭を巡らせ、その広さは本城である金沢城の倍近くあり、巨大な湖沼に浮かぶ12の島を石橋、木橋で連結した全国でも珍しい「浮城」であった。そして、それぞれの島は孤立した曲輪として石垣と土塀で厳重に防備が施されていたが、その内側には利常が趣味とした広大なお花畑が広がっていたという。
 寛永7年に小松城に入城した利常は、この湖に浮かぶ花園のような城で余生を風流風雅に過し、万治元年(1658)に亡くなった。(こまつ・旅ナビより)

  小松城本丸中央には、五重天守閣が余裕で建つほどの10間四方という大きな天守台石垣が造営された。しかし、実際に天守台上に建てられたのは小さな二重三階の数寄屋造りの風流な櫓。日本で唯一の寄棟屋根、柿葺き屋根の櫓は、内部に屋敷が設けられた異色の建物で風雅を愛した利常の美的感覚を象徴するものだった。(こまつ・旅ナビより)

 
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小松城縄張模型
現在、本丸、二の丸跡には、小松高等学校、三の丸跡には
芦城公園が造られ、博物館、市立図書館などの文化施設も建てられた。
                       (小松市立博物館所蔵)

 

小松城の瓦
小松城の軒丸瓦で、家紋の梅鉢紋が象られている。
築城当時、小松城の瓦は小松で焼かれていた。

                     (小松市立博物館所蔵)

 文筆は一部「小松城を歩く」ガイドブック、
パンフレットなどから参照させていただきました